必然性は〈そうでしかありえない〉ことである。
それは不可能性(ありえない)によって実は成立している。
不可能性(ありえない)に支えられることによって
必然性はたんに〈そうである〉ということ以上のものとして
己れを認めている。

必然性は不可能性の否定態ではない。
むしろ不可能性の上に、不可能性の逆光を浴びながら、
己れ自身を不可能性の奇妙な変種として見いだすのである。

必然性はそれ自身が〈ありえない〉ことつまり不可能性だからである。
〈そうでしか〉の〈ありえなさ〉として必然的なものは生じる。

〈そうでしか〉〈このようでしか〉〈別様では〉という
〈ありえなさ〉の上に立つものは有限性ではなく否定性でもない。
それは恐らく主語に先立つ主語なのだ。

例えば〈このわたしであるわたしはある〉という場合、
それは〈このわたしであるわたしが必然的にある〉ということではない。
〈このわたし〉ではない〈わたし〉でも
わたしは有り得るかもしれないからである。
むしろそれは大いに可能的である。
単に事実に反しているに過ぎない。
事実に反するからといって、
それは非現実的ではあっても、
必然的でないという謗りを受ける筋合いは少しもない。

〈このわたしがある〉という事実は、
むしろ〈このわたしでないわたしがある〉可能性の根拠になる。
それは少しも
〈このわたしがこのわたし以外のものではありえない〉という
論理的必然性を与え得ない。
論理的必然性というものは
〈このわたしでないわたしがある〉可能性を、
単に事実を引き合いに出すだけで論破するというような
安っぽいものと考えられてはならない。

〈このわたし〉の必然性はその現実性以上のものでなければならない。

〈このわたし〉は現実に存在するがそれは現実的であるというよりも、
寧ろただ可能的にありえることであるに過ぎない。

そして〈このわたしでないわたし〉が現実に存在することと同様
ありえることであるに過ぎないのだ。そこには何らの差異もありえない。

もしありえるのであれば、
それはありえることが起こっているのではなくて、
現実を越えて、超現実的なありえないこと、
不可能なことが必ず起こっていなければならない。
寧ろ現実ではなく、超現実的なことこそが必然的なのである。

必然性は現実に準拠するものではない。
むしろ逆である。現実こそが必然性に、
超現実性に準拠せざるをえないのである。

ところでわたしはライプニッツにはじまって
ハイデガーやウィトゲンシュタインにまで受け継がれた
根拠律のお有難い言葉、
〈何故何か存在するものがあって寧ろ無があるのではないのか〉という
たんに存在することの有り難さを
神秘のように拝み不思議がる悪癖を励起するだけの
この有難迷惑的言葉を少しも有り難いとはもはや思わない人間である。

はっきりいって〈世界がある〉程度のことを神秘だと勘違いする人間、
とりわけウィトゲンシュタインのような男は
ただのバカであると断言してよい。

馬鹿げている。
このような人間は
あの愚かな十七世紀の偽テルトゥリアヌスや
偽アウグスティヌスのように
〈不合理故に我信ず〉と表明しているに過ぎない。

《Credo,quia absurdum》ほど愚劣で
〈神〉を愚弄したたわごとはないとわたしは嘲笑する。
このような人の信仰こそが〈absurd〉つまり馬鹿げているのである。

世界をそして神を不条理だという人は、世界を神秘だといい、
また神を崇めているつもりでも、それをただ卑しめているだけである。
このような人は神を〈absurd〉だと言うことによって、
単に俺の信じている神は馬鹿であって、
おれは馬鹿げたものを神だと思っている馬鹿なのだと
いばり散らしている馬鹿であるに過ぎない。

わたしはこうした存在困難性を認めない。
こうしたお題目は知性のない者、
歴然として無が生起しているのを看取することのできぬ
下等動物の唱える安易な苦悩でしかない。

真に神秘であるのは不合理性や不条理性ではなくて
全く合理的な不可能性の方である。

〈世界がある〉事実に驚くのは馬鹿である。叡智は別のことに驚く。

〈世界がある〉、しかしそんなことは不可能である。

不合理なのではなくありえないのである。
無が生起することはありえるし現にしょっちゅうあることである。
そんなものは日常茶飯事である。

無、それが一度でもなくなったことがあるものか。
それどころか無はいつもあるのである。
寧ろ存在することの方が全く不可能である。

〈世界がある〉、そんなことはありえない。

真の神秘は必然性にこそある。
必然性が神秘なのであって、存在は陳腐である。
寧ろ世界があることが全く合理的でありながら
それゆえに〈ありえない〉、不可能であることをみるべきである。

世界が存在することなどありえないのである。
またわたしはあるが、わたしはありえないのである。
わたしはわたしである、しかしそんなことはありえないのだ。

何かしら可能事が起こるのではない。
寧ろ不可能なことこそがつねに必然的にまた全く合理的に出来する。

〈わたし〉という現象を陳腐に自明視する人間は軽蔑にのみ値する。
それを不思議がる人間も同様に嘲笑にのみ値する。
こうした人間たちの知恵のない哲学は安っぽい。

彼らはソフィアを愛するというが、そんな女がどこにいるというのだ。
いない者を愛すると称する人間はまず嘘つきであり、
それ以上に許しがたいことに必ず愛をこそ知らない。
そんなものは全く愛ではなく、また知をも欠いていると唾棄すべきである。

驚くべきは寧ろ他者が存在するということである。
そして、わたしが存在すること世界が存在することは
ありえないのだと知ることである。
必然性こそが一番の謎である。必然性はありえないことだからである。

そして、またわたしは密かにこうも考えるのである。
むしろ不可能性こそが必然的なのではないかと。

真の必然性とは寧ろ不可能性の方であって、
わたしたちが必然性と呼ぶものは、
真にあるところの不可能性の朧ろな影でしかないのかもしれない
ということである。

神、それは存在でも無でもない。
神とは不可能なものである。

神は在る、神はない、神は死んだ、神は生きている、
何とでも言うがよい。そんなことは究極すれば単に無意味なのだ。

神は不可能である。

ところがこの不可能性は不合理なのではなくて全く合理的なことなのだ。
そして実際にテルトゥリアヌスは
《Credo,quia absurdum》などとは言わなかったのである。
真に彼が言ったのは、
キリストの復活という不可能事についての偉大な言葉である。
わたしもそれをこそ喜んで復唱する。

Credo,quia impossibile est.