アリストテレスの『形而上学』第5巻12章(Δ12)は、
dynamis(potentia)dynaton(possibile)
adynamia(impotentia)adynaton(impossibile)の用語解説になっている。

不可能性はadynatonと呼ばれている。
ただし、ギリシャ語ではpotentiaとpossibileの区別は
ラテン語程はっきりしていない。
dynamisとdynaton、adynamiaとadynatonは
深く通底する語として考察されている。

興味深いのは、dynamis(能力=可能性)の
二番目の意味及び五番目の意味である。

dynamisの第一義は運動転化のアルケー(原理/始動因)だが、
アリストテレスはその第二義として受動能力としてのdynamis、
受動的(他動的)運動転化の原理としてのdynamisを認めている。

これのゆえに或る受動するものがなにかを受動するとき、それがなにをどのように受動しようと、そのものを我々は受動する能力がある(dynaton)と呼ぶ》これはポテンシャルとしてのdynamis、受動的潜在能力のことである。これに応じたdynaton(possibile能のある、可能的な)の意味は、《それとは他なるものがそれに対してあのような能力をもっている場合のそれも[他なるものから受動しうるという意味で]能あるものと呼ばれる。

第五の意味が興味深いのは、そこに〈破壊〉についての言及があるからである。
物事の自分自身の性質を非受動的または不変化的に保持する能力、
所有態(ヘクシス)を
その物事のdynamis(potentia 能力[性能])とアリストテレスは考えている。

それは例えばこういうことである。
事物のそれ自身であること、すなわち自同性は、
その事物の自己の所有態であるが、
それはその事物の自分自身である能力から来るのだといいうるということである。

それゆえにアリストテレスは言う。

一般にものが破壊されるのは、そのものがこうしたことをなし能うからではなくてなし能わない(メー・デイナスタイ)からである。

つまりその事物は無能力なのだ。
しかし第二義(受動能力)から考えると、破壊されるのは、
この事物が何か破壊せられうるような受動的潜在能力を有しているからだ
とは考えられないだろうか。
無能力は受動的な潜在能力の一つなのではないだろうか。
不可能性は受動的可能性であるのではないだろうか。

もう一つ興味深い言及がある。
論理学的問題として、
可能性(ディナトン)と
不可能性(アディナトン)は次のように対照されている。

アディナトン(不可能性)とは、
「正方形の対角線はその辺と通約的である」というような場合で、
必然的に偽であること、
つまりその反対が必然的に真であるような場合のことである。

必然的偽である不可能性は必然的真理の正反対としてその裏面をなす。
逆は必ずしも真ならずというが、不可能性の逆は必ず真なのだ。

他方、可能性の場合は、
「人間は座っていることができる(可能である)」
というような場合であって、
その反対は必ずしも偽ではない。
というのは「人が座る」ということが可能であるということは、
「人が座らない」ということを
不可能(必然的偽)とはしないということだからである。

ある事柄が可能的であるならその逆の場合も可能的である。
不可能性(必然的偽)は必然性(必然的真理)と表裏一体になっているが、
可能性は、必ずしもそうではないという仕方で、
必然性と不可能性を否定=中断しているのである。

常にその逆は有り得る。
〈そうでしかありえない〉ということはないというのが可能性なのだ。

すると、不可能性というのは、
可能性の否定形としてその後から生じるのではなく、
可能性の方こそ
不可能性の否定形としてしかありえない(不可能である)のである。

しかし、可能性は単純な不可能制の否定態ではもちろんありえない。
それは必然性(及びその裏面である不可能性)の不可能性である。

すると可能性には二面が観測される。

すなわち、第一に必然性の不可能性、
〈必ずそうでしかありえない〉ということはない(不必然性)というよりも
むしろありえない(必然であることが不可能である)ということである。

或る事柄がある。
それを必然的に真であるということが、必然的に偽であるような場合、
問題となっているその事柄はそのようでない場合がありうる(可能である)。

ところで、不必然性とは〈必ずしもそうではない〉ということである。
それをいうためには
〈そうではないことがありうる〉という可能的事態が示されねばならない。
これはばかげている。
結論となるべき可能性が前提となっている循環論法だからである。
しかし、このばかげていることはもう少し詳細に検討してみなければいけない。

或る事柄がある。
それをわたしは必然的に真である、
そうに決まっている、そうでしかありえないと主張する。
これに対しあなたは、いや必ずしもそうではない可能性があるという。
しかし、その可能性が必然的に偽でないと
どうしてあなたに証明することができるのか。
可能性があるというその証拠は何処にあるというのか。