〈中間者〉とは、二律背反の逆説的場所、
一種の非場所(atopos)をもって己れの場処たらしめ、
そこを希望郷(utopia)へと変容せしめることである。

認識は光学的なものによって先立たれる。
すなわちそれはopticalなものである。
認識論はオプティミズムである。
その根拠はそれが希望から出発する思考だからである。
希望に拠点を置かないかぎり思考することは無意味である。

それは思考することが不可能であるという意味ではない。
むしろ思考はそれでも可能であることを認めねばならない。
だがそのような思考は可能性をしか追及しない悲観的な思考である。
わたしたちはそれをヘーゲルに認め、
また、石頭な多くの現実主義者に認める。

絶望に拠点をおく者ほど可能性の追求を行う。
この可能性は必ず現実的な蓋然性を貧しく意味しているだけである。
しかし問題はこのような現実の枠組みに呪縛された可能性の探究、
有限主義的=現実主義的な可能性の探究の無意味性、
不毛性、反創造性である。

むしろこのように物事を見直してみるべきである。
可能性の思考とは想像力の貧困であり、
何かが可能であるというようなことは寧ろ絶望的なことなのではないのか、
可能性に過ぎないことでのみ満足するとしたら
それは敗北の哲学ではないのかということである。

認識とは光学であるが故にオプティミズムである。
これに対してペシミストは必ず反省的である。

反省的=内省的(reflex)であるとは
反映的(reflective)であるということ、
そして再帰的(reflexive)かつ
屈折的(refractive/refractory)であるということである。

それは受動的にもたらされた暗い映像や
屈折して矮小化された貧弱なヴィジョンにしかかかわらない。

光学的なものと反射的なもの(鏡やレンズ)の差異は実は大きいのである。
光学的なものは能動的であり、それゆえに願望表現的たりうる。
ギリシャ語文法にはoptative mode(願望法)というものがある。
希望の思想である楽観主義(optimism)は
語源的にも光学(optics)に関係があるが、
それはまた最適条件(optimum)や
取捨選択の自由(option)にも結び付いている。

optimistは必ずopticalでありoptativeでありoptionalである。
これが認識論の精神である。
それは自らを光源たらしめ見通しを開き
かつ明るくする能力に関わる。

しかし認識論は厳しい楽観主義者である。
それは悲観主義者すなわち現実迎合主義者たることを自らに禁じるものである。

どれほど絶望的な状況に置かれようと、決して希望を捨てず、
希望が裏切られることを恐れず、死を廃し、
希望のなかに断固として自己を保持する、
それこそが真の精神的な生であり、純粋理性の尊厳性なのである。

サルトルは言った。〈わたしは希望のうちに死んでゆく〉
素晴らしい言葉である。

思想家というものは一生涯、
死に至るまで
希望以外の場処にその思考の心臓を置くべきではないのである。