ヘーゲル的全体者たろうとすることを拒否するべきである。
むしろパスカルのように
無限大と虚無(無限小)の間の〈中間者〉に定位するべきである。

パスカルの眼差しは
無限大の宇宙の永遠の沈黙に畏怖して
己れを極小なるものと感受しているだけではなく、
無限小をも眺め、己れの異妖な巨大化にも畏怖する眼差しである。

無限とは単なる巨大性ではない。
むしろそれは無限大と無限小という両極端に引き裂かれた場なのである。

逆にパスカルの中間者としての自己定位こそが
正当な無限への定位となりえている。
無限は常にこのようなパラドクスとしてある。

パラドクスとは無限のこのような両極端性のことである。
逆にヘーゲルの弁証法はこのようなパラドクスを消してしまうのだ。

パスカルは言っている。

人は一極点に達するという点でその偉大を示すのではなく、
同時に二つの極致に達することに於いて、
而してこの二つの間の全空間を満足させることに於いて、
それを示すのである。

そこにこそパスカル的〈中間者〉の
ヘーゲル的〈全体者〉に対する優越性がある。