カントの範疇表において、不可能性は可能性に対立する様相の範疇に属する。
それは蓋然的判断において用いられるカテゴリーである。

そして不可能性という語は、
とりわけ神(最高存在体)の現存在の
実体論的・宇宙論的・自然神学的証明の不可能性として使われている。

不可能性(Ummöglichkeit)という概念が
特に専ら神に関わって使用されていることは興味深いことである。

カントはだからといって無神論を主張しているのではない。
彼は神の実在性を否定しているのではないからである。
不可能性は否定性ではない。
従ってまた実在性を制限するような有限性でもありえない。

ここに疑いがふと口を突いてこぼれ出る。

不可能性の神学。
むしろ不可能性こそが神なのである。
神の神性は不可能性なのではないのか。

不可能性はむしろ無限性なのではないのか。
有限性を否定的に超越しようとするような超限性としての無限性の観念、
有限性を止揚するものとしての無限性の観念を中断して
無からしめるようなものとしてあるのではないのか。

デカルトは『哲学の原理』のなかで
〈無限という名称は神のためにとっておきたい〉と言っている。
彼はそこで〈無限〉(infinity)と〈無際限〉(indefinite)を区別している。
カントと不可能性についても同じようなことがいえるのではないか。

ところでデカルトのこの区別は
ヘーゲルの〈真無限〉と〈悪無限〉(=悪循環)に重なり合うものである。

ヘーゲルは〈無際限〉を、有限性の否定として
〈限界をもたぬ〉(endlos)という意味だけの消極的無限と見なし
これを軽蔑的に〈悪無限〉と呼んでいる。

しかし、ヘーゲルは〈真無限〉と命名した〈無限〉を
神のためにとっておくことをしなかった。彼はそれを簒奪している。
そしてカントに言わせれば量のカテゴリーにあるような全体性に、
単一性と数多性の統一に貶めている。

ヘーゲルは質的な無限を量化してしまっているというべきではないのか。