【存在の意味の二重性】
〈有る〉には「~が存在する(être)」「~を所有する(avoir)」の二重の意味がある。
前者「在る」については今は措く。謎であるのはむしろ後者の方である。
この「有る」とは一体、何か?

ところで、〈存在する〉は〈存〉と〈在〉の二つの動詞の結合体である。
〈存〉は〈存じる〉と〈存する〉の二重の意味に更に分解できる。
このうち〈存じる〉は相手や事情を「知っている」ということ、
認知の意味合いをもっている。
〈存する〉は〈~に存する〉という言い方で用いられる。
これも知的な言葉である。
多くの場合、それは問題の所在を明らかにするときに使用される。
〈存〉は該当物の身許を認知し照会し、
その〈何であるか〉の正体を明察している。


【正体の概念】
ここで〈正体〉という余り熟慮されてこなかった重要概念が感知された。

〈正体〉とは〈本体〉や〈実体〉ではない。
〈正体〉とはその場限りのものである。
その場において照らし出された限りにおける
該当物の何の許にあるのかが質されているのである。

〈正体〉とは判明せねばならぬものである。

〈存〉はこの〈正体〉に深く関わる。
というより〈正体〉への関心を知的に表明している語である。

〈正体〉は判明したときにそれが何処から来たものであるか、
何処に本来は置かれていたものであるかが明らかに知れているものである。
つまりそれは同定されるものである。

〈正体〉はその本来の居場所に帰される。そこには帰納的推理が働いている。
〈正体〉とは帰納的推理の結論として見いだされる
蓋然的なものであるに過ぎない。

さしあたってその場だけ正しければいいというのが
〈正体〉において問われているものである。

〈正体〉とは該当物の深い内面性には関わりをもたない。
それは該当物の〈本体〉が何処にあるかとは別である。

〈正体〉が問われるとき、〈本体〉の方は寧ろ不問に付されている。