可能性があるという証拠は、いったい何処にあるというのか。
いや、そもそもどうして、「可能性がある」などということができるのか。
考えてみると、ずいぶんと不思議なことである。

もうすこし見やすくするために例題を考えてみる。
事柄は《わたしはバカである》に設定する。
わたしはこのことを必然的に真であると主張する。
そして「俺はバカなんだから何もできないんだ」といじけてしまって、
あなたは大層困る。
そこでそれがいや必ずしもそうではないのだということを説得するために、
つまり、バカではない可能性があるということを示して
わたしを慰めねばならない。
そこでわたしの主張する必然的に真であるというそのことが、
可能的に真でしかないこと、
従って逆に可能的に偽であることを示さねばならない。

これは非常に頼りないことはすぐに分かる。
「あなたはバカかもしれないがバカでないかもしれない」
そんな〈かもしれないこと〉を
真でも偽でもありうるようなことを言うだけでは
何の慰めにもなっていない!

バカかもしれないは全くもってその通りなのである。
後半のバカでないかもしれないは耳には入らない。
それはバカだと思い込んでいる人を更にからかうことにしかなっていない。

これを耳にいれるには可能的な反証を空想してやるだけでは駄目である。
もっと積極的な何かがいる。

わたしがバカであってはできないようなことを
事実やったことがあるという実在的証拠が必要となる。

それは明白な物証となりうるかもしれない。
実在的証拠は、可能性の論拠となる可能性がある。

このことは後に詳しく取り上げて問題にするが、注目に値する。
しかしここでは問題とならない。

自分がバカだと思い込んでいるこの男(わたし)は、
過去の偉業を思い出させられても、
恐らく却って落ち込むだけだろうからである。
もはや決して二度とそのことはなしえないのだ、
俺はその能力を失ってしまって
この不可能性から立ち上がることはできないのだと泣きわめくだろう。

あなたにとっては、
わたしの過去の偉業という実在的証拠を持ち出す行為に出ることは、
それによってわたしが立ち直るかもしれないが、
そうでないかもしれないこと、
可能的に真でもあれば偽でもありうることとしてある。
つまりその薬は効くか効かないか飲ませてみなければ分からないのである。

これは例を少し変えて、わたしが死んでいる場合にしてみると見やすい。
この死んだ男はともあれ言うのである。
《俺を生き返らせる薬はないというのは必然的に真である》と。
あなたはいや必ずしもそうではないと言って、
得体の知れない薬を持ってくる。
それを魔法使いの婆さんから貰ったとしよう。
その婆さんはあなたにこう言うのである。
《この薬は死者を蘇らせる薬だが、
 人によって効く場合もあれば効かない場合もある》。

そんなものに一縷の望みをかけてあなたはそれを買ってくる。
可能性とはそういう薬である。効くかも知れないが効かないかもしれない。
真か偽か分からない。案の定、必然性に死んでいる男は蘇らない。
可能性は必然性を不必然たらしめることに失敗する。
それは弱すぎるのである。

しかし問題はこの場合婆さんの言ったことである。
効かない場合がある可能性は確かに真となった。
しかしそれは必然的真理によってその通りであっただけである。
では効く場合があるという可能性はどうか。
そんなものは果たしてあったといえるのであろうか。
たまたま効かなかったのか、それとも絶対に効くわけがないのか。
それは可能的に偽の薬であるのか必然的に偽の薬であるのか。
実現しなかった可能性は、
それが可能性であるのか不可能性であるのかが判然としない。

むしろ、実現したからこそ可能性はその原因としてあったことが確定する。
現実態からこそ可能性は生起する。
現実態とならなければ可能性はあるのだとは論証できない。
しかし、可能性はたといそれが実現していなくともありうるものでありうる。

不必然性の〈必ずしもそうではない〉は
〈そうでないことはありうる〉を可能性の水準のままでは論証し得ない。
必然性を論破するような可能性を示すためには
現実態の助けを借りなければならない。

現実態は可能性に代わって必然性を論破し、
なおそこに可能性がありうることを示す。
現実態は可能性の実現であるが、また可能性の可能性でもある。