Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第二章 神聖秘名 4-1 悪夢の幻視者

 ヘンリー・カウと反対派ロックは、複雑化したヨーロッパの経済や政治状況を背景に、互いの立場理解した上でのある種の共闘を試みている。これは60年代のジェネレイション・ムーヴメントと一体化したロックやジャズの活力とは全く異質のものだ。彼らはひどい孤立感の中に身を置いている。ロックとそれを取り巻くシステムは彼らにとって完全に見捨てられた前時代的な反動の象徴である。これは現代にあってひとつの重大な選択を意味している。ヨーロッパのロック・シーンにとって、彼らが真に闘争心をむき出しにした時代とは68年5月の学生暴動(パリ5月革命)後の数年間であった。ヨーロッパの多くのグループはこの時期に、現代音楽、そしてフリージャズとの接触を行った。ドイツではアモン・デュール、グルグル、タンジェリン・ドリーム、CANが、そしてフランスではコミンテルンやバリケイド、マグマ、ゴング、ロベール・ウッズ・タロットが、かつてポピュラー・ミュージックが一度も試みたことのない方法論の荒野に足を踏み入れた。アヴァンギャルド、プログレッシヴとよばれる領域は常に政治的なものや反社会的なものとの関わりを密接に維持していた。しかしこれは逆にいうなら社会的な様相を主と考え、ロック・アートそのものをその表層に現れた従と捉えることもできる。現にヨーロッパのロックはその経済機構の退廃に平行してアメリカ経済支配への追従を容認するという現象をも生み出したからである。欧州のアイデンティティーに固執する者は、ことごとく商業的には追い込まれている、というのが現状らしい。ヘンリー・カウはそれら諸々の時代の流れにまっ向から反対を宣言すると同時に、〈人々にとって希望とは何か〉という本質的問題を問いただそうとしているようだ。つまり希望とか恐れといったアート・ベアーズのテーマは、ヨーロッパ全体の巨大な苦悩にも通じているように思われる。
 北村昌士「危険な冒険者たちに連れられて」(『フールズメイト79年1月号』)


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 後に、ローマでの反軍国ナショナリズムキャンペーンの演奏中、極右団体のごろつきの放った凶弾に撃たれ、逃げ遅れて、ネオファシストどもに虐殺され、無残な屍を晒すことになった悲劇の人ロートレアモン=エックハルト。

 《ラビ・ニーチェ》の他のメンバーもインテリだったが、エックハルトは並外れて物凄い読書家だった。彼自身はその通称が窺わせる通り、フランス文学科の卒業生だったが、ベルリン大学の哲学教授の子息で、哲学にも詳しく、ドイツ語・英語・フランス語・ヘブライ語・ギリシャ語を話し、サンスクリットとラテン語もそこそこ出来るという噂。まだ二十六歳の青年とは信じがたい程の博覧強記を示し、議論に強く、闘争的な思想の持ち主だった。

 彼は自分のことをアナーキストだと誇らしげに宣言するのが好きだった。
 フランスの詩人ロートレアモンの他に、彼が尊敬しているのは、20世紀ロックバンドのCAN、ファウスト、ヘンリーカウ、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテン、ディス・ヒート、サイキックTV、ホルガー・ヒラー、そして最後に彼自身。文学者では、ブレイク、ドストエフスキー、ヘルダーリン、ブレヒト、パウル・ツェラン、アントナン・アルトー、モーリス・ブランショ、フィリップ・K・デイック、思想家では、マックス・シュティルナー、ローザ・ルクセンブルグ、ニーチェ、アントニオ・ネグリ、ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ(エックハルトにとって《キング・フェリックス》とはフェリックス・ガタリのことだった)、ティモシー・リアリー、マルコムX、それに魔術師のクロウリーとリガルディーだった。

 尚、歌に出てくるミカエルとは、ソヴィエト連邦最後の指導者で、その20世紀末当時世界のヒーローであったミハイル・ゴルバチョフと、フランスの思想家でスキンヘッド(いわば《和尚》である)だったミシェル・フーコーのことである。

 ゴルバチョフは軍部のクーデターで失脚し、纏め役のいなくなったソヴィエト連邦は民族主義者と資本主義者たちの勃興によって分裂、崩壊する。エックハルトはゴルバチョフは実は密かに殺され、偽者にすげ替えられたのだと信じていた。

 フーコーは、エックハルトによれば、非人称的で、いわば《顔》のない、どこかに《権力者》という実体をつかまえることのできない、極めて現代的な権力システムを分析した20世紀で最も偉大な-あのマルチン・ハイデガーよりも偉大な-思想家であり、ホモセクシャルだった。彼はほぼディックが死んだ頃に、エイズで亡くなった。エックハルトは冗談交じりに、エイズはアメリカが作った細菌兵器で、偉大な思想家であったミシェル・フーコーの頭脳を恐れた卑劣な連中が、この余りにも惜しい人物を死に追いやり、世界的な思想状況の後退を演出したのだと語った。

 また、フーコーを意味する《和尚のミカエル》と共にエイズを盛られたとされる《デレク》というのは、数々のロックムービーを作った映画監督デレク・ジャーマンのことである。その作品『ジュビリー』のなかで、興業師の資本家によって堕落していくロックが描かれ、《音楽産業は死んだ》という台詞が出てくるらしい。

 《喘息病み》は、彼の尊敬する思想家ジル・ドゥルーズ、《豆の木の賢者》はやはり哲学者のジャック・デリダで、どちらも反ヘーゲル的な思想家であり、フーコー亡き後のフランスの思想界を支える二大カリスマだったという。

 彼らが呆れた顔を示している《フクロウのうわ言》を言う《ジャップとアメ公の腐った息子》とは、ソヴィエト連邦の崩壊と共産主義の歴史的敗北を、アメリカに代表される資本主義による世界の薔薇色の統一の達成と見なし、これをもって歴史はその目的を終えたという、非常にアメリカに都合の良い愚劣なイデオロギーをヘーゲルを使って正当化した或る日系二世の学者がいたということを罵倒しているのだそうだ。

 当時世界で最もポレミックで先鋭的だったフランスの思想界では、さんざんこういったおめでたいヘーゲル主義の暴力性に対して批判がなされていた後だっただけに、当時少しでも哲学や思想を齧ったことのある大学生レベルの人間なら誰でも、世界がヘーゲル的に統一されてしまった歴史以後の時代が、どんなにひどいおぞましい状況を意味するのかが分かった筈だとエックハルトは言った。

 それは弱者が踏みにじられ、マイノリティーが弾圧される、ナチによるホロコーストの時代の再来を意味している。しかも今度はもっとたちの悪いことに、テクノクラートによって大衆がやんわりと真綿で首を絞めるようなやり方で、しかも憎むべきヒトラーの顔さえ見ることができず、誰が真の敵なのかも分からぬままに操作しやすい愚鈍な畜群に退化させられ、抗議も抵抗もなす術もないという絶望的な時代の到来である。

 エックハルトによれば、アメリカこそその人権蹂躙的な共産主義的愚民制を実現したのだそうだ。そこで国民は全員馬鹿でなければならず、体制を批判しかねないインテリは差別され、権力と地位を剥奪され、書物を出版することも何かと商業的理由をこじつけて断られ、最終的には殺されるか、精神病院という名前の強制収容所にぶちこまれるか、諦めて、邪悪なテクノクラート――エックハルトの言葉でいうなら《帝国主義の宦官》になるしかなくなる。エックハルトはこれをドストエフスキーの『悪霊』に出てくる或るグロテスクな社会思想家の名前に因んで、《アメリカン・シガリョフシチーナ》と命名した。