わたしはここで少しクギを刺しておかねばならない。
存在を超えたものを認められない人間、
また自同律の絶対的論理的必然性が当然のことであるかのように思っている
頭の悪いおめでたいヘーゲリアンは
これからわたしが話すことが永遠に分からない下等動物であるから
この先をどうか身の程知らずに読もうとするのをやめなさい。

さて、このわたしは例えば神澤昌宏である。
しかしそれはこのわたしが他の人ではありえないということを、
神澤昌宏以外の何者でもありえないということをわたしに了解させえない。

単に事実上このわたしは神澤昌宏であって
それ以外の何者でもないというだけの話である。
それは事実の結果そうであるに過ぎない。
事実の結果、このわたしはあるのであってないのではない。
また事実の結果、神澤昌宏であるのであって
他人ではないのであるのに過ぎない。

事実上、事実性というのはこのようなものである。
この事実性は歴史性ではない。どうか混同しないで戴きたい。
事実性は歴史性のことなど知ったことではないものとして
冷淡な物体のようにしてそこに転がっているだけである。

この場合の事実性とはそのように
味もそっけもないもの〈無味乾燥性〉としてまずある。
この〈まずある〉は単なる確認である。

例えばエルンスト・ブロッホが
『未知への痕跡』の書き出しの「ひどくわずか」という文を

わたしはある。
しかしわたしはわたしを所有していない。
それゆえにまずわたしたちが生成する。


と綴るとき、かれが接したであろう
その味もそっけもない「ひどくわずか」なものが
この〈まずある〉ところの事実性なのである。

今、わたしはそのブロッホの思考の始まりの場処と
同じ処に降りたところから始める。
この「ひどくわずか」(僅少または微妙)なトポスから始めるとき、
それは〈まずある〉の非常に貧しい確認から出発する
ということを意味しているのである。

それは肌寒い場処である。
フッサールですらこれほど貧寒な
殆ど消え入りそうな場処にまで思考の定位を還元してはいない。
レヴィナスもそうである。
イリヤに襲われるときでも
レヴィナスはあまりに多くを所有しているといえるのである。
現象学的意識は己れを現象学的に還元したところで所詮寝床に暖められ、
家具に囲まれた部屋の中にいる。その還元は必ず多くの残余を内に抱える。

意識から出発することは不徹底なのである。
ブロッホは全く違うところから純真に己れの思考を始めている。
そこには現象すらないのである。

しかし、わたしはブロッホとはやや書き出しの文が
〈ひどくわずか〉だが違う。

まずある。
それはわたしだ。
だがわたしはわたしが誰かよくわからない。
それゆえにさまざまな〈わたし〉たちがさまよい出てくる。


わたしは〈まず〉の位置が違う。
そしてまだ〈まだ〉は使わない。
そしてブロッホの場合は
〈わたしたち〉とは
〈われら〉(多くの他者を含む人間たち)とも
とられかねない響きをもつが、
わたしは〈わたし〉の複数化についてしか語っていない。

ブロッホは〈まだ持たない〉というとき、
その〈まだ〉(未存在)という呟きによって、
〈未来〉を先行的に把握し得ている。偉大である。

〈それゆえに〉はこの〈まだ〉(未来)に導かれて
〈生成する〉ものに繋がる。

ブロッホの短い言葉〈まだ〉は、それだけで
歴史をこの〈まだ〉の告げる未来への時間性(志向性)として運動として、
全くの無から召喚している。無からの創造である。
だからこそそこに始まりの言葉〈まず〉は置かれている。

この〈まず〉は〈まだ〉に対応して後から生じる。重要な発言である。
〈わたしはある〉だけでは天地は創造されておらず、
真の歴史は開始してもいないのである。
たとい〈わたしはある〉の回りに既に世界があるとしても、
それは貧しさなのであり、世界喪失なのである。

ブロッホの〈わたしはある〉はそれ自体がヘーゲル哲学の最終極致、
絶対精神にして絶対知として大いなる精神現象学の歴史を
その大団円の終焉に綴じ終えたものであったとしても、
それでもそれが何だと言っているのである。
そんな世界は貧しく、全くの無ではないかといっているのである。

たしかに〈わたしはある〉、
しかし、わたしは何一つ本当のものを、わたしを所有してはいない。
ゆえにそのような存在は無である。
だから歴史の真の始まりはこれからであり、
わたしは天地をこの無から創造しなければならない。

わたしはブロッホ学者ではない。
来世に運良く少しはまともな時代のまともな境遇に生まれられたら
その生涯をこの素晴らしい人の素晴らしい書物の研究に捧げたいと思うが、
今生はこの時も余裕も未来も希望も剥奪されて無い
このわたしの深い貧しさから
何も無いわたしのこの痩せた手の中から
光を魔法を生み出してゆく他にない孤独の中にわたしは立つ。

世界には悪がある。
わたしは血塗られた戦いのなかからしか、
そして怒りと呪いのなかからしか
決して希望をつかみ出してくることはできないだろう。
滅びの中からしか
贖いの微かな光は差し込んで来ないだろうことを諦念せねばならない。

それでもブロッホのあの僅か一行の言葉、
たった一行だけの邂逅がわたしを永遠に慰め、永遠に勇気づけるのだ。

この敵だらけの世界、
痛め付けられズタズタに引き裂かれた狂気と混乱の世界、
そこでも人は捨て身に思考するべきであるし、
また、神と共に生き神と共に歩み、
この死の影の谷間をもエデンとして
うべないぬくことができるのだということをブロッホは教えてくれている。

さあ、わたしはわたしの茨の道を行こう。