わたしは例えば
〈語り得ぬものについては沈黙しなければならない〉
というウィトゲンシュタインの言葉を罵倒するし背教するだろう。

しかしそれはあらゆる哲学者のうちで一番可憫そうな子供である
ウィトゲンシュタインを愛するが故に見ていられないからである。
この言葉を書いたときこの人は、
どれほど辛かったことであろうと胸が痛む。
彼の生い立ちをそしてその後の様々な逸話を知るにつけ、
この人がどれほど辛い精神的肉体的虐待を受けて育ってきたのかが分かる。
彼の全ての緊迫した言葉はその背景と切り離して考えることはできない。

例えば後期の私的言語批判のなかで
ウィトゲンシュタインは「痛み」を例にとって
それが伝達不可能であることを執拗に繰り返す。
それはこの人の親がどんな人間であったのかを寧ろ教えている。
ウィトゲンシュタインが
自分の痛みはあなたには伝わらないのだというときに、
それを胸の痛みなくしてどうして読むことができるだろう。

いいえ、ルードヴィッヒ、
きみは間違っており、それ故に、きみはとても正しい。

痛みが伝達不可能だという程ひどい痛みはない。
伝達不可能だからこそ、きみの痛みはきみの胸を破りわたしの胸をも破る。
だがその痛みなど本当は問題ではない。
むしろ伝達不可能ということこそが本当のそして最大の痛みだ。
それが、いやそんなことを知らねばならぬことが
どれほど苦く苦しいかをわたしは知っている。

だからこそきみは慰められねばならない。きみは愛されねばならない。
誰かがきみのために怒り、きみのために泣いてあげなければならない。

きみは脅され罵られ殴られ嘲られ死ぬほど辛い思いをしているのに
それをどんなに訴えても大人たちはそれを体よく無視し、
それどころか侮辱と暴力と冷笑と脅迫に過ぎぬ
全く愛ではないものを恩着せがましく愛だと思えと
小さなきみをいじめたのだ。

きみは青ざめ歯を食いしばって震えて育った。
きみは嘘つきの大人共の人間の心を破壊する論理を憎悪していた。
それを見返し、
誰もきみを騙すことも侮辱することもできないようにするために
どんな心で『論理哲学論考』が書かれたか、わたしにはその重みが伝わる。
それはきみが大人たちに何をされたのかを
ひしひしと黙示しながらそれを永遠に告発する書物である。

突き放された子供よ、いたぶられた子供よ、
きみは思い詰めた顔で哲学者になった。
きみの哲学は死に物狂いの命懸けのものであった。
きみは哲学者になれなければ死ななければならなかった。

「先生はわたしのことを丸きりのバカとお考えですか」と
きみは人格者として評判の高いラッセルの前に立ち開口一番そう言った。

それは恐ろしい言葉だ。
蔑まれ続けてきた子供が、最後の希望を
父親代わりとなるべき人に託して、
あなたはわたしを生かすか殺すかと尋ねているのである。

そのとき、きみはこのやっとみつけた尊敬に値する人間らしい人になら
殺されても構わないと思っていたのだろう。
そのことこそが余りにも悲しい。

どうしてそんなことを訊くと尋ねるラッセルにきみは答えた。

もしバカでないなら哲学者になりたい。
さもなければ飛行機乗りになりたいと思っているのだと。

勿論、飛行機乗りになるとは、
あなたに認められなかったら
わたしは自殺するのですということの婉曲表現だ。

それは語り得ぬことであった。しかし示され得たのだ。

ラッセルはそのときにウィトゲンシュタインの全てを見抜いた。
ウィトゲンシュタインの
世にも類い稀な知性と純真な愛するべき魂と気高さも、
その深く傷つけられ続けてきた胸の痛み・孤独・屈辱・絶望も。

しかしこの語り得ぬものがそのように黙示されたとしても
それを永遠に聖なる沈黙の黙示に留保することは、
果たして許されるべきことであろうか。

否。わたしは断じてそれを許すことはできない。
許すわけにはいかないのだ。

したがって、次のように言わなければならない。
小さな子供の一滴の涙を購うためには、全宇宙をも破壊しなければならない。
そして翻って、次のようにも言わなければならない。
小さな子供の一滴の涙からこそ、全宇宙が創造されなければならない。