『存在と時間』のハイデガーは、
日常的現存在の存在様式である世人(das Man)を
本来的自己の頽落態、
真剣真面目にうけとられるべき存在(実存)の問題を、
自分自身の有限な〈死へ臨む存在〉である実存を
引き受けて生きろという良心の呼び声を
覆い隠すものとして否定的に描いている。

実存主義、特に我が国におけるそれはこの点を非常に誇張して
それをキルケゴール的に、倫理主義的に受け取った。
更にサルトルの影響もあってこの実存主義はヒューマニズムですらあった。

無論、それはハイデガー解釈としては誤読であるのは明白である。
ハイデガー自身が、『ヒューマニズム書簡』を待つまでもなく、
『存在と時間』のなかで繰り返し〈頽落〉〈非本来的〉という言い方が
何か道徳的倫理的にそうあるべきではない劣った否定的な判断、
例えば〈頽廃〉〈堕落〉というようなニュアンスで
受け取られるべきではないと念を押しているからである。

だが、誤読だからといってそれが一体何だというのである。
だからサルトルが駄目だとか
実存主義は終わったということにはならないのだ。
ふざけたことを言ってはならない。

フランスならいざ知らず、
日本ではその誤読も実存主義もサルトルもまだまだ必要なのである。
それは少しも古くなっていない。
それどころか、レヴィナスよりもハイデガーよりも
わたしたちは寧ろサルトルとその実存主義を擁護するべきであるし、
切実に必要としているのである。

それは学者や批評家として
サルトルが優秀であったかどうかとは全く別問題である。
優秀でなくとも良い思想家の良い精神というものはある。

寧ろ日本に最もいらないもの、
それはロラン=バルトや構造主義や記号論である。
何故ならそんなものは慌てて取り入れなくともいやでも入ってくるし、
強制的に学ばせられるからである。

サルトルと共にわたしたちは
メルロー=ポンティを読むことをやめさせられてしまったが、
このことは良いことではない。

わたしたちは実存主義と間主観性の現象学を
余りにも早く葬ったつもりになってしまったが、これほど莫迦げた話はない。

見るがいいのだ。わたしたちの生活世界を。
見るがいいのだ。わたしたちの置かれた政治的現状を。
見るがいいのだ。わたしたちの精神の荒廃を。

何故いつもまたしてもこうなのか。
いつもどうして厭味なヘーゲルと陳腐なユングと
蒙昧なオカルトと皮肉な社会学と白々しいコンピュータに取り囲まれた
おびえた子供の場処にわたしたちは連れ戻されるのか。

現代思想入門だの哲学入門だのは死語となって久しいが
それにもかかわらずそういった本は廃刊になるどころか文庫本化されており、
あまつさえ『ソフィーの世界』だなどという
世にもみにくい邪悪な童話が、
オウム真理教事件ですっかり打ちのめされてしまった
幻滅した大人たちの宗教の代替物として蔓延しつつある現在、
わたしは一人の永遠の哲学青年として激怒する。

ふざけるな! 『ソフィーの世界』なんか読むな。そんな本を書くな。
十四歳の少女を早く大人にしてやろうとする教育熱心な哲学者、
知(ソフィア)を愛するとか自称するお前、〈愛知者〉と称する者よ。

よく聞くがいい。知を愛好すると称する者こそ最も愛を知らないのだ。
そうやってお前は自分にそっくりな
愛する心をもたず童心を喪失し何でもかんでも本から学んだ
死せる知識の色眼鏡に染め上げてからでなければ
物自体を見ることもできない歪んだ大人を
もうひとり作ろうとしているだけなのだ。

おまえはありのままの童心を憎んでいる。
子供の物自体の真相をまっすぐに見抜き洞察する澄んだ瞳を恐れている。
おまえは子供の視力を失わせ
現象のうすよごれた眼鏡をかけさせて
悪しき大人の現実世界に対する批判的認識能力を失わせたいだけなのだ。

おまえの正体を言ってやる。
おまえは砂男であり、素直でおとなしい魂の
もぬけの殻的空虚な人間をつくろうとしているポルターガイスト、
TVがみせるような偽りの幻のかがやきで、
人間の心自体のもっている理知のきらめきを見失わせ、
実体と称して虚無を、
愛と称して魂の殺人を、
自己と称して別人を、
自由と称して隷属を
選び取らせようとする憑依霊であり、
またそのような悪霊に憑依かれた豚であり、
己れに憑依いたベルゼブルを
他者にも憑依かせようとするうすぎたない奴だ。

白痴の去勢された仔羊的大衆を、
その悲惨な境遇に永久に呪縛し、
思考と身体と革命の自由を
〈バカといわれたらどうしよう〉
という心配の鎖によって
虚弱化させようとしているだけである。

おまえはただのヘーゲルのゾンビだ。
すべての人の頭を白く白痴化し
白けてめでたくさせようとする昼である。

そういういやらしいマインドコントロールをやめろ。
利いた風な哲学史をご親切に解説してあげましょうというような奴は、
哲学者ではなくて哲学の最悪の敵である。

おまえが教えるのは人をバカにする詭弁術と
己れを騙し偽るための虚幻術であって、
断じて批判的に哲学することではない。

十四巻からなるアリストテレスの『形而上学』の名において、
タロットの十四番目の大アルカナ〈ART〉の名において、
そして十四歳以下の子供達の偽りのない童心と叡智に
深い畏敬の念をもっていた真の偉大な童話作家にして
逆説論理学者ルイス・キャロルと
永遠の子供・超人アリスの名において、わたしはおまえを許さない。

十四歳の年齢に達した子供を大人にしてやるような童話を書くな。
おまえに知恵(ソフィー)を教育して駄目にする権利などない。
大人になるや否や人は物の分からぬバカになるのだ。
子供には無知の知などはない。子供とは端的に知性である。
その知性を侮蔑し圧殺するため嘘八百の知識をおしつけ
啓蒙してやろうとする有難迷惑な奴、
そんな人間は純粋理性の法廷においてギロチンにかけられるべきである。

哲学の敵、子供の敵、童心の敵は、
民衆の敵であり人間の敵である。

知るがいい。哲学の王国は子供の国、
ピーターパンとティンカー=ベルの住むネヴァーランドなのだ。
良い哲学者たちは皆、
厭味な大人の精神の現象が作り出した現実世界で
散々に虐待された小さな子供たちであった。
澄んだ瞳に一杯涙を溜め、小さな胸を痛め、
横柄な大人の蛮声に脅える子供でなかった哲学者が一人でもいると思うのか。
ヘーゲルやハイデガーでさえ小さな子供の心をもった人だったのだ。

すべての哲学書の奥底に
卑しめられ虐げられ傷を負った脅える子供の魂が透けてみえる。
デカルトを見ろ。ウィトゲンシュタインを見ろ。
それはどんな文学書よりも生々しい人間の言葉である。

哲学を学ぶとは
書物の中に幽閉された一人一人の痛ましい子供を愛するということである。
子供達は己れの発した言葉の檻のなかで
見つけ出されることを希って震えている。
しかし、その子供達こそ哲学者の内の真の哲学者である。

この愛するべき子供達に美しいきらめきをみせてあげたい。
書物の底ですすり泣いている子供達の声が聞こえないのか。

哲学史などありはしないのだ、本当は。
そこには友達になってあげなければならない
優しい小さな子供達の顔だけがある。
子供の言葉を奪われ、己れの発した大人の言葉が生き残って、
人を莫迦にしたり傷つけたり騙したりする
道具に使われるために引用されるとき、
この無視された子供達は悲しむ。

彼らはそんなことのために本を書いたのではない。
言葉を残したのではない。
哲学者は皆、偽りの知識で心が傷つけられ、
目が見えなくなることを、
訳知顔で教育熱心な大人たちの嘘を、
心の底から憎み、悲しみ、怒っている子供達なのである。

だがこの子供達はとても不器用で、
大人の言葉に対し大人の言葉を使って必死になってたたかいながらでしか、
自分がどこにいるのかを示せない。

彼らは皆本当は詩人になりたかったのに違いないのだ。
なれなかったのは才能の欠如のためではない。不幸のためである。
声を奪われ、己れの言葉を剥奪されてしまっているからである。
自分の生の言葉をきっと誰も聞いてくれないだろうと
絶望してしまっているからである。