最後に〈積極哲学〉 positive philosophy について手短に述べよう。
この語はシェリングの後期思想にみられるものであるが、
意味内容はかなり異なる。

シェリングは一般に同一性の哲学者として知られる。
しかし、わたしがここに〈積極哲学〉というとき
念頭にあるのは寧ろ差異と反復の哲学者であったドゥルーズのことである。

彼は『差異と反復』の中で、
否定の対概念である肯定 affirmation と定立 position を区別している。
積極的とは定立的という意味である。
それと同時にわたしは position という言葉で
レヴィナスがイポスターズ(hypostase 存在の位相変換=基体化)として
『実存から実存者へ』の中で語った
主体=意識の発生と定位(position)の運動を狙っている。

奇しくも相前後して亡くなったこの二人の哲学者を
わたしは心から尊敬している。
しかし、わたしはドゥルージアンでもありえないし
レヴィナシアンでもありえない。

この両者の思想の正しさそして
その人格の見習うべき素晴らしさをわたしはうべなう。
それは疑う余地もないものである。
だがそれはフランスにおける話であり、
本の中だけの学問であるにすぎない
学会的哲学研究の中だけでの話である。

わたしはそのような
フランス文学科的及び西欧哲学科的な大学人や
知識人や批評家の閉じたお喋りの輪が
外部にたれ流す有害な廃液をこそ問題にしたい。
この人達はその問題に背を向けている。
だからこそわたしは背教の定位としての
アポスターズを提起しようとするのである。

それは彼らが語るような意味での
ドゥルーズやレヴィナスに逆らうことであるが、
しかしこの逆らうことによってこそ
ドゥルーズは、そしてまたレヴィナスは、
わたしたちの内にわたしたちと共に
わたしたちの胸に転生して永遠に生きる。

大学人や知識人というのは屍骸にたかる蛆虫のような輩である。
このような者たちこそ思想家を殺し、
万人に相続されるべき魂の遺産を独占して、
彼らの背後にその死んだ思想家が大勢の人となって蘇ることを妨害している。

ドゥルーズの不在・レヴィナスの不在は
その死によって今更創られたものではなく、
生前から創られていた。
それは殺人によって創られている。
殺人とは評価と解説のことである。
まさにそこにおいてこそわたしはレヴィナスの言葉を言いたい。
〈汝殺す勿れ〉と。

わたしはドゥルージアンでもありえないし
レヴィナシアンでもありえない。
また、そうあるべきでもない。

むしろわたしはその教えに背き、
彼らに叛逆する背教者であることを通して
自らをドゥルーズたらしめレヴィナスたらしめるのである。

背教者であるとは入門者であることの棄却であり、
専門家であることの拒否であり、
端的に破門者であることの選択である。

門出は門そのものの破壊によってのみ生じる。
そのときに死者はその墓から出てまさにここに実存する語る主体となる。

背教者とは単に受肉者としての実存ではなく
(肉体が墓場であるとすれば、
 そのような基体化した実存者は
 単に実存の内なる死者であるに過ぎない)、
自ら復活者へと位相転換した真の実存者、不死の実存者である。

わたしは既にして死者の復活なのであり、復活した他者である。
他者はわたしへとわたされ、わたしの場において蘇る。
このときに僭称者は打ち砕かれ、引き倒されて、
大地の塵を舐めることになるだろう。

だからこそわたしは黙示録的語調において
ドゥルーズとレヴィナスに〈来れ〉と呼びかけるのである。

来れ、ここに来れ。我はもはや我ならざる我なり。
それ故に、汝は我なり。汝は我において語れ。
我とは汝が来り、語る主体の出来事となるための場である。
あなたが不在である場処はあなたによって埋められねばならない。
わたしはあなたに言う。
汝、不死の神たるべし、神聖にしてもはや死すべき者に非ず。

これは魔法である。形而上学とは魔術である。
それは厳密な意味で
マギ(賢者)の術(アート)としてのマギックであって、
学問でも宗教でもない。
寧ろ学問や宗教のような権力を転覆する
革命的芸術として魔術は行使されるのである。

形而上学とはそれが単なる超越論的批判哲学に過ぎないなら形骸である。
またそれが単なる弁証法的自己止揚に過ぎないなら亡霊である。
背教の定位であるアポスターズは、
このテーゼとアンチテーゼに対してジンテーゼたろうとするのではなく
ヘテロテーゼ(異定立)たろうとする。

形而外学 apophysics とは魔法術 magick であり、
黙示録 apocalyps である。
それはゴーレムに息を吹き込む創造の術である。
形而上学とは最終的に何であるのか。
魔術的観念論であり魔術的唯物論である。それ以外ではありえない。

しかし、この魔術的観念=唯物論は、
ヘーゲルやそれを批判したキルケゴールやレヴィナスの哲学が
結局全員ある種の同じ穴の狢に過ぎなかったような
特定宗教への理性の帰依なのではなくて、
飽くまでも理性的なもの、単なる理性の限界内に
宗教を厳しく限定するものである。

来れ、とわたしはドゥルーズとレヴィナスに呼びかける。
すると彼らは汝となって我において語るだろう。
わたしの名において語るのである。

この引用の様式は通常の僭称的で非人称的な様式とは全く逆である。
すなわちそこにおいては我が汝の名において語るが、
そのときに全ての固有名詞は死者の名前でしかない。

わたしは人間の皮を鞣して創られた
そのようなネクロノミコンのようなナチス的妖術書を哲学書とは認めない。
魔術師は妖術士を憎悪しその不倶戴天の敵であろうとするものだからである。

このようなネクロノミコンにおいては全てが〈恥〉である。
〈恥〉は人の素顔(他者の顔貌の裸出性)を隠すが、
それ以上に恐ろしいのは、
その他者の裸出せる顔貌そのものの皮を剥ぎ取り、
己れの皮肉のための仮面と化してしまうものだということである。

〈恥〉の文化は〈皮肉〉の文化である。
そこにはあるべき実体というものがない。

我が汝の名において語ることは悪徳である。
それは自殺であると同時に殺人である。
そのときに、我も汝も語らない。ただ〈彼〉が語る。

だがこの〈彼〉とは一体何か。

人ではない。それは血も涙もない空ろで虚しい言葉である。

言葉が語る。

だがそれは
後期ハイデガーが言ったような暖かく豊饒な〈存在〉の、
ギリシャ的な〈自然〉の、
レヴィ=ストロースなら〈野生の思考〉と
言ったであろうような言葉であろうか。

断じて否である。

この日本的自然において語る言葉の世間性は、
ハイデガーが das Man と呼んだものとは全く異なる言葉を語る。
それはドイツ語ではなく日本語である。
その差異を見落としてはいけない。
またそれはフランス語でもないのだ。

レヴィナスはフランスにおける不特定の人を意味する On に
全面的ではないまでも一定の肯定的価値を認めているが、
それはハイデガー哲学の自己中心性に対して
批判的な〈他者〉の哲学者レヴィナスの
単に個人的な思想的立場からのみ帰結するものではなくて、
お国柄の違いであるというべきである。

いうまでもなく、
日本は自我の国のドイツでも
理性の国フランスでもないのである。

日本の世間は、とりわけ最近においては、
寧ろレヴィナスのいうような非人間的なイリヤに近いものである。