アポスターズとは、形而上学的な主体の定位ないし定立の運動である。

アポスターズはギリシャ語で〈距離〉を意味し、
派生して〈背教〉を意味するアポスタシアという語を生んだ。

わたしがアポスターズを論じることの最終的な狙いは
西欧の〈存在〉の形而上学と
我が国の〈空〉の形而上学の二重支配を解体すること、
そして、
ハイデガーの存在論とレヴィナスの倫理学からの
二重の脱出を遂行することである。

しかしその脱出や解体の様式は、
例えばデリダの脱構築のような消極的なものとは異なる。
背教の定位としてのアポスターズが目指すのは
〈積極哲学〉としての美の形而上学である。

第一哲学は〈美学〉である。
哲学の原理(アルケー)は、
〈真〉(存在)でも
〈善〉(倫理)でもなく、
〈美〉でなければならない。

しかし、ここに
〈美学〉
〈形而上学〉
〈積極哲学〉として構想されつつあるものは、
各々通常その名で知られているものとは様相を異にする。

まず、わたしが〈美学〉というのは、
美感学・感性学と訳されるが相応しい
今日の審美学的美学 aesthetics の名称を拒否するものである。
わたしのいう美学はプラトンの古き佳き名称に立ち戻って
kalonology と呼ばれてもよいものである。
何故なら美自体
(auto to kalon/das Shöne an sich)こそ
求めるべきものであり、
近代美学が追求してきた
どうでもよいような美的なもの(das esthetische)を
探求するのではないからである。

しかし、わたしはこの美学を
epistemology (認識論=知識学)とは全く違う意味での
認識学 gnostics の名で呼びたい。

それはデルフォイのアポロン神殿の門柱の銘文
〈汝自らを知れ〉(gnothi seauton)に由縁のある語だからである。

いうまでもなく、この格言こそ
哲学者が本来どのようにあるべきかを
厳しく定めた忘るべからざる初心の心得である。

認識つまりグノーシスを為そうともしない輩は哲学者の名に値しない。
哲学の任務はグノーシスという意味での認識である。
ではそれが何故美学ということになるのか。

答は明瞭である。〈汝自ら〉とは人の心である。

人の心こそ真に美しいものであり、
また美しくあるべきものだからである。
その美しい心、美しい魂、美しい命を愛するべきである。

わたしはこの美しい精神を畏敬を込めて〈童心〉と呼ぶ。
そしてこの〈童心〉の別名は〈純粋理性〉である。

ところで言っておくが、
わたしが第一哲学が美学だというのは
真や善を放棄することでは断じてない。逆である。
真や善を歪めるものだからこそ存在論や倫理学を批判するのである。

真や善は美しい心にしか顕れることはない。
わたしのいう美学は厳しい絶対的な正義の哲学である。