思考なきところに希望はなく、希望なきところに苦悩はない。
そしてまた逆に苦悩する者のみが希望を創造するのである。

思考することは戦いである。苦しい戦いである。
苦しい戦いを生きる者だけが真摯な思考をなしうる。
その真摯な戦う思考の苦悩のみが
希望の閃光のもとにオプティミズムを、
偉大なるオプションを創造的に提起しうるのである。

重要なのはそこなのだ。
所与の暗い現実から出発するのではなくて、
希望の創造的閃光のもとに定位するものこそが
実は現実に最も厳しい仕方で立脚しつつ立ち向かっているのである。

オプティミズムとはこのような思考の逆説的真実である。

パスカル的そしてカント的な中間者は
このような二律背反を己れの思考の場処としている。

無限が無限大と無限小の分裂的=逆説的実体であったように、
希望もまた明暗の分裂、幻滅と光輝の分裂体としてのみある。

希望はユートピアからのみ来る。それはまたディストピアでもある。
希望はユートピアとディストピアの、
弁証法的に媒介され得ない(媒介不可能な)
二律背反の直接性/近接性としてのみある。
それは現在的に見れば無=場処(atopos)である。

だが、だからこそ希望は生成する。

わたしたちはこの希望郷を不可能郷と捉え返す。
即ち、それは単に無い場処なのではなくて、
その場処の無さは少しも否定的なのではなく、
逆に希望の条件として肯定的にとらえかえされた不可能性なのである。

不可能性、それこそが希望の原理なのである。