スピノザは、可能性・不可能性・必然性・偶然性の四つの基本的な様相概念を
存在の情態(affectiones)として考察している。
それはデカルトが属性(attributa)と呼んだものである。

ところで、デカルトにおいて、
〈実体〉は
物体的実体(substantia corporea)と
思考実体(substantia cogitans)に分類される。
デカルトの考えによれば、
両者は被造実体として実体という共通概念(類)のもとに思考可能である。

それらは存在するために神の協力だけしか必要としない。
つまり実体とは神によって存在させられるもののことをいう。
実体は実在でありそれを規定するのはまさに存在することそのことである。

ここで問題が生じる。
実体はまず存在するという以外の何者も意味しない概念であるから、
それはその存在を実体であるまたは存在しているというだけでは、
他の実体(思考実体)にその存在を伝達することができない。
実体の直接知はありえないのである。

また思考されただけのものは、それが存在するかどうか分からない。
思考することと存在することは別の次元にあり、いわば切り離されている。
何かがその間隙を埋め、思考と存在を一致させねばならない。

われわれは神ではないから、
思考することによって実在を創造することはできない。
実在は創造者である神から到来しなければならない。

人間の思考のこの創造に関する無能力と受動性が無知と懐疑の源にある。
また幻想と理性の錯覚と虚構(仮説の構成物)の源にもなっている。
それはつまりわれわれにとって神が隠れており、隔てられているからである。

だからこそ存在するということ、
実体(実在)が外から告げられるということは、
われわれの思考が思考していたものが真理であることを教える。

思考と存在の一致が真理であるというのは、
単にわたしの思った通りのものが現にあったというだけのことではない。
理論が実証されたとか、
己れの知性の能力の高さが示されたということではない。

そうでは全くない。
それでは思考が物を創造しているというのと同じである。
それでは思考は神の座を奪っていることになる。
たんに驕慢の罪であるだけではなくて、
それは神から見放されていること、魂の遺棄である。

また、それが神が思考や理論のたんなる正しさを
保証してくれたのだと考えるとしても、
それは神の権威をかさにきて、
己れを単に権威づけている愚劣な自己満足であり、
思い上がりであり、思い違いでしかない。

真理とは己れの思考のいかなる正しさとも能力とも全く関係がない。

デカルトがカント以前の人間であることを忘却してはならない。
理性が構成したもの(仮説)を物のなかに置きいれて、
理性それ自身の正しさを自己検証するというような
〈実験〉という発想はデカルトにはない。
そのような意味での批判的理性の奇妙な自立性、
己れで己れを正当化するようなこの論法は、
逆にデカルトからみれば神を恐れぬ不届きな態度である。

デカルトにとって寧ろ重要な関心事であるのは
己れの思考が物と一致しているかではなくて
神と一致しているかどうかであり、
真理の体験の意味の重点がまるで違うところに置かれている。

デカルトが方法的懐疑を通じて知りたかった
〈確実性〉の意味を後世の人間は読みちがえている。
彼が求めたのは初めから神である。

カントとデカルトはまるで観点が違っていて、議論が噛み合っていない。
カントの時代の人間にとって神は物(実体)のように考えられている
(しかし神はむしろデカルトにとっては超実体であるのではないか)。
だからその実在を理性的に証明できるかどうかがポイントとなる。
そこで認識能力の〈批判〉が問題となる。

しかしデカルトの〈懐疑〉は全く無神論的ではない。
cogito, ergo sum は、
思考の個々の能力相互の権限範囲の確定についての批判ではなくて、
その全体的能力の無能性を露わにしようとしたものである。

カントは理性の光によって
自我や神の実在が認識できるかどうかを問題にするが、
デカルトはそもそもそんなことを問題にしていない。
彼は人間の理性などカント以上に信じていないからである。
そんなものは偉大でも何でもない。

この点を大いに読み間違ったのはパスカルである。
パスカルは人間の存在の卑小さに比して
その思考能力(精神)の偉大さを語る。
そしてデカルトを不敬虔だといってなじるだろう。
お門違いであるばかりか、それは全く逆なのだ。
パスカルの方こそ己れが思い上がっていることを知らない。

他方、デカルトこそ神の前に最もへりくだった人物である。
彼は人間の存在の偉大さに比してその思考能力のどうにもならない不確実さ、
愚かさ、卑小さを語るとき、確実性の源である神を
実体以上のものとして崇めているのだ。

何故人間の存在が人間の思考よりも偉大であるか、
それは人間の存在(実体)は神が創造したものだからである。

cogito, ergo sum というのは、
思考の光がその前方に己れの実在性(実体)を
ありありと直観できるというような能力の宣言ではない。
近代のデカルト解釈はこの点を読み間違えていた。
デカルトは己れの存在を自明視しているのではない。
それが近代的な意味で〈明証〉だと言っているのでもない。
寧ろそれは宗教的体験について言われるような意味で
〈照明〉であり天啓だったのだ。

sum を照らしたのはデカルトの能力ではない、
それは神の全能の力であり、sum は
それ自体〈顕現〉(epiphanie)だったのだ。

わたしが考える、そのことによって、
わたしの存在は直接的にまたは自明にわたしに知られる、
とデカルトは言っていない。
カントにいわれるまでもなく、
デカルトはそれが愚かなことだということを知っているのだ。

カントは理性の個々の能力を疑ったが、
デカルトは理性の全体を疑っている。
恐らく、自同律すらも彼は疑っただろう。
わたしはわたしではないかもしれない。

デカルトの懐疑は、
わたしたちの考えるような意味、
すなわち科学のための方法論的思考という意味での
方法的懐疑であったかどうか、実はそれこそが疑わしい。

また、デカルトは、自同律を通して cogito, ergo sum を得たのではない。
そうであるとすれば、cogito, ergo sum は
単に古臭い〈思考と存在の同一性(一致)〉を
愚かに信じ込んでいるだけの凡庸な哲学的妄想であるに過ぎない。

〈ego sum〉は〈わたしは在る〉という存在の定立であって
実存(現存在)について言及している。
それは〈わたしはわたしである〉という、
或る意味では実在していない幽霊や非実体でも言うかもしれない
同一性についての言表ではない。

〈je pense, donc je suis〉の être は、
全く existentia の意味であって、繋辞(コプラ)ではない。
自同律とは全く関係なく、端的にわたしは在るのである。

わたしが何であるかが問題ではない。
何でもないわたし、わたしですらもないわたしであったとしても、
わたしの思考することが何から何まで間違いであって、
論理ですら悉く誤りであったとしても、
この思考するわたしは存在しないことが不可能なのである。
だがそれは、己れを存在しないと考えるとしたら、
論理的に自己矛盾に陥るからなのではない。

そのように考えることは確かに不可能である。
だからわたしが存在するという結論を
いやいや受け入れねばならないという意味で不可能なのではない。

そうではない。
デカルトにとって〈わたしが存在する〉という発見は喜びだったのだ。
それは直ちに神との出会いであったのだ。

cogito, ergo sum というのは思考実体の能力の話ではない。
存在の現前への直観でもない。
自同律とも背理法とも論理ともかかわりがない。
何かを知ることができるとか、
自己矛盾を犯さないとか、
思考が正当化されるとか、
或いは論理的思考の限界としての不可能性への直面とかとは
違う次元の話なのだ。

そういった思考によって実体が正しく捉えられるかどうかとか、
己れを存在しないものとして思念することができるかどうかとか、
ある概念や判断が間違っているかどうかとか、
そのような意識内的な認識論的問題ではない。

わたしが存在しないことの不可能性の故に、
わたしが存在することを認めるというその内容が問題なのではなく、
この不可能性が何に由来しているか、不可能性の根拠が問題なのだ。

思考は考えることができるだけであって、
それ自身は何も存在させることのできない無能力である。

〈実体は存在するというだけで知られるものではない〉
とデカルトが言うとき、
思考実体であるコギト自身が、
自分自身の実在性・実体性(sum)について無知であることを
われわれは見逃すべきではない。

存在は、知ることの相関物として
自動的に与えられるような対象では全くなくて、
そのように知ろうとする思考実体のすべての能力を
越えているものなのである。

思考実体は己れを存在させることはできない。
人間は神ではないからである。
神だけが実体を存在させることができる。

つまりデカルトは、思考のこの無能性、
自分では自分を存在させられないという発見を通して、
神こそが背後から彼を実体として存在させているのだ
ということを悟ったのである。

従って、sumという言葉が意味するものは、己れの存在の超越性である。

コギトにとって己れの実在は、己れの能力の範囲外に
超越的に神によって立てられているもの、神の意志に依拠するもの、
そのようなものとしての存在の真理
(まったくハイデガーとは違う意味で)であり、
存在するとは神の内に在るという意味で、
神の真理の内への思考の定位であり、それが実体ということなのである。

この存在の真理の内に立つこととしての〈sum〉とは
単に〈われ在り〉なのではなくて、
〈われ在り〉において寧ろ神こそが在るという確信である。

また、そもそも〈われ在り〉とは、
神だけに許された発言〈われは在りて在るものなり〉である。
〈われ在り〉とは神の名前である。
ヴァレリーはコギトはデカルトの名前だと言ったそうだが、
それならばスムとはむしろ神の名前である。

思考と存在は寧ろ別人なのであって、
全く同一人物(同一性)であるとはいえない。

寧ろデカルトは自同律を廃棄している。そんなものは真理ではない。
論理学などギリシャ人が考え出した
人を政治的にだまくらかすための屁理屈ではないか。

そうではなく、デカルトは論理の外部に飛び出して、
全き他なるものである神の顔に直面し、
この他者こそが真理であるということを喜びをもって受容したのである。

だから、cogito, ergo sum は、
まさに厳密にレヴィナスの言うような意味での、
神(他者)との対面 face à face の関係なのである。
それはブーバーのいうような我と汝の二者関係ではないだろう。
sum において神はまさに他者の創造の痕跡として出会われているからである。

存在する、それは思考主体にとって
超越的な出来事であり、純粋な驚嘆である。
デカルトはそれを己れの理性の光によってではなく、
それを全面的懐疑の行使によって滅ぼし去ったとき、
己れの知的能力が尽き果てたとき、
神から発する光によって、
まさに神の言葉としてそれを聞いたのである。

デカルトは思考実体という被造物であり、
己れの存在を神によって受け取ったものであるに過ぎない。
だが、だからこそデカルトは神に支えられて在るのである。
したがって、寧ろデカルトはキルケゴールに近いのである。

〈存在する〉と云うとき、人は神とすれ違う。
わたしが存在することはありえない、したがって、わたしは存在する。
不可能性という名の神に創造されたものとして。
わたしとはまさにそのように美しい奇蹟の果実〈実体〉である。