ハイデガーにおいてもレヴィナスにおいても、
存在者と存在論的差異によって区別された存在することは
某か他なるものの所有財産として思念されている。
この某か他なるものは非人称的な超越者である。

この非人称的超越者は
それ以外のあらゆる存在者とは切離された絶対的に他なるものであり、
存在論的差異自体として仮象せられ得る。
それはしかし必然的な仮象である。

それは如何なる存在者でもあり得ないが、
にも拘らず、存在者であるかのように要請されてまず存在させられる。

中世の思考の枠組においては
この〈必然的で不可能な存在者〉は〈神〉と呼ばれていた。

非人称的なものが擬人化され、純粋に抽象的に実体化されるとき、
それは〈神〉という非存在者に理念化される。

神は必然的に存在する唯一のものである。
しかしこの必然的存在者は完全に存在不可能である。
この不可能性は必然的で不可避である。
しかし必然性と不可避性は分かちがたく結合した様相概念であり、
またこの両者を不可能であるとすることは不可能である。

神はありえない以外の仕方ではありえない。
〈他のようではありえない〉とは
アリストテレスが必然性(αναγκη)を表現する際の通常の言回しである。

論理的にいうと必然性は恒真性である。
その逆である不可能性は必然的に偽であり、恒偽性を意味している。

不可能性と必然性は故に表裏一体をなす一対の概念である。
この概念は共に不可避的である。

不可避性において不可能性と必然性は未分化である。
しかし、両者のうち、
より不可避的で必然的なものとして端的に現れて来るもの、
先に分娩されるものは不可能性の方である。

まず〈ありえない〉(不可能性)がなければ
〈他のようではありえない〉(必然性)は必然的に成り立たない。

必然性は〈他者の不可能性〉として記述される。
それは不可能性に寧ろ根付く。
そして必然性(恒真性)ではなく寧ろ不可能性(恒偽性)の方こそ
がより勝義に必然的な必然性であることをわれわれは認めざるを得ない。