■〈別人〉は、自/他の分別の様相においては、〈一〉と〈多〉の対立に対応して唯一人の必然的な別人である。つまり自分と他人は別人である。別人は減算によってのみ発見される。従って、自分-他人=別人ということができる。これは、他人-自分=別人と書いてもよい。しかし、体験的な意味内容は違ってくる。ただし、いずれの場合も、他人はどのような値をとってもよいから可変項である。しかし別人と自分はそうではない。
 自分-他人=別人は、自分が他人に先行してより大なるものとして考えられているともいえる。この場合自我は確立している。自分=他人+別人であり、自分は他人に付け加わる別人性の故に優越している。このとき別人性は他人から自分を際立たせる優越的な非対称的差異である。ここで他人を抹消してみよう。すると自分は別人より大なるものとして残る。自分>別人である。自分-別人は何らかの正値(+)の概念を解として要求する。勿論抹消した他人を問題にしているのではない。他人はいわばアポーハされていて排除されている。自分が他人より優越的であるからには他人など問題ではない。
問題なのは自分である。そしてまたこの場合、別人は他人に対する優越感をしか意味しないので殆ど無きに等しい。自分-別人≒自分である。ここで別人もまたアポーハされてしまう。自分=自分という形式的自同性は形式だけのものではなくて自分の自己性によって満たされている。自己同一性は内容のあるものである。この内容は自己の実体性であるといってよい。
 別人は無自体ではなくて極限値としての無である。限りなく無に接近するが無そのものとは決して一致しない。別人は Nobody ではない。むしろ Nobody の無限近似値、その限りない類似物であり類比物 analogon なのだ。

 別人は自同律の形式性そのものを類比するものとして自我に対立するときに非常におそるべきものである。
 別人≒自我-自己≒自同律≒無(Nobody)≒死

■間-主観性を共同主観性とはむしろ異なる次元にあるものとして確保しなければならない。共同主観性は根付くこと、基体となること、暗黙知となることによって、異なる主観の間=差異を単なる同一に内属する相異に通分し還元してしまうが、そのことによってそのあるがままの間-主観性を、間を消してしまうからである。間-主観性という美しい思考は平面的なものであって表面的(表層的)なものではない。しかし共同主観性はこの間-主観性を下から担い支えることによって己れのうちへとさらいとってしまう。共同主観性は恐らくフッサールのいうような相互主観性のようなものであれトランスパーソナル心理学のいうような超主観性であれ間-主観性をそのあるがままの水準から拏剥がしてしまうし、また属領化してしまうものであるに過ぎない。