〈わたしはある。だがわたしはわたしを所有していない。
 それゆえにまず、わたしたちが成る〉とエルンスト・ブロッホは言う。

存在に先立つ如何なる所有物もない
無一文の〈ある〉の境位から直接出発して、
〈われわれ〉の歴史の生起を語り得たのはブロッホであった。

その最初の〈ある〉の孤児性に注目しよう。
ブロッホの〈ある〉は誰から贈られたものでもない。
彼は最初に何も持たない子供である。

そのことが逆に彼の思考のこだわりをもたぬ軽やかさを、
そして貧しい人々へのおおらかな共感への暖かい広がりを自然に与えている。

ブロッホの『異化』には「鏡なしの自画像」という
優れたエッセイが収められている。
マッハの『感覚の分析』に付された挿絵に言及しながら、
ブロッホはそこに顔のない人間、
頭部が脱去した赤裸の現存在の姿を見いだしている。

正直な(エルンスト)ブロッホ。
わたしはここで父の名前である家名(姓)にではなく、
子の名前、その人自身の名前に注目したい。

ブロッホはマッハと共にそして
インディアンのようにErnstな人である。
それは嘘をつかぬ人、真面目な人、厳格で厳粛、
真剣で謹厳実直、品格のある重大な人間、
重要なただごとならぬ人の響きをもつ。
それは戦う人、論争する人の名前である。
エルンストの名は、戦士の意味をもつ。
レヴィナスの名がカントと共に
〈神はわれらと共にいます〉というメシアの名、
神の子として選ばれた〈人の子〉の名であることと同様に
この名の意義はまず最初に銘記しておかねばならぬことである。

ブロッホの根本性格は嘘のない真摯な戦士であることにある。
この顔のない男の名はエルンストである。イリヤではない。
マッハであれブロッホであれこの自画像は
エルンストという男の自画像なのである。
その頭格喪失の穴を通して、
彼はその閉ざされた孤独の空間からわれわれの方へと抜け出てくる。

わたしはある。しかしわたしはわたしをまだ所有していない。
それゆえに所有物に塞がれることなくその〈ある〉は
無差別に〈われわれ〉の方へとさらけ出され、
〈われわれ〉へと開かれている。
〈わたし〉にとって既にして〈われわれ〉は同胞であり
貧しき人々という共通本質のなかにある。
われわれもまたエルンストのように無一物である。
顔もなく特性(固有性)もない無名の大衆である。

カール・マイの冒険小説とヘーゲルを耽読した
工業都市マンハイムの不良少年、
鉄道官吏の息子で夢多く、
感受性の鋭いギムナジウムの落第生だったブロッホ。
彼は労働者と資本家の明暗がはっきりと刻まれた街を見て育った。

この感性は重要だ。彼にとって親しい者は工場労働者たちだった。
中産階級の欺瞞とは全く無縁だった彼は、
学校の下らぬカリキュラムなどそっちのけで図書館に通っていた。
堅信礼に反抗して口の中で〈ぼくは無神論者だ!〉
と唱え続けた少年ブロッホ。
嘘の大嫌いなブロッホ、ユートピアを正直に求めてやまぬブロッホ。
彼は夢と魂の他には何も持たず、
大人たちから何ひとつ貰ったことのない少年である。

わたしはこのブロッホの少年時代が、
フッサールやレヴィナスやハイデガーの少年時代よりも
好もしいものにみえる。

ハイデガーの場合、事は全く異なる。
彼は敬虔なカトリック教徒の家に生まれ、恵まれて育った優等生だった。
聖マルティン教会の堂守の長男に生まれた彼は聖者の名前をつけられたのだ。
母の家は十六世紀にまで溯れる旧家だという。
弟のフリッツとは仲がよく、幼いころから活発に外で遊んだ。
他に妹がいたが、はやくに死んでいる

余り注目されていないが、
この幼い妹の死がハイデガーの心に残した傷は
かなり深いのではないかと思われる。
死や他者や物について語るとき、
ハイデガーの言葉に重苦しい辛い調子がよぎる。
絶えず喚起される無のイメージは妹の喪失にこそ深くかかわっている。
この妹について余り語らない、
語らなさすぎることは
痛手の深さがどれだけのものであるのかを却って告げている。

Geheimnis――存在の真理の内なる秘密、
それは死んだ妹のことなのだ。

失われた幼女への不幸な永遠の愛、
その不可能な愛の苦しみが
ハイデガーの存在論の秘密の基調低音をなしていることに
どうして気づかずにいられようか?

愚かな妹であったにせよ、
死ぬまで妹に面倒を見て貰ったニーチェへの
嫉妬と羨望が恐らくハイデガーにはある。

そして、ひどい女であるエリザベートに
引き取られてしまったニーチェの悲劇、
偽りの家族愛によって破壊されたニーチェの運命の本当の悲惨さが、
その人間的な余りに人間的な不幸が
そのためにハイデガーには多分みえなくなっているのだ。

だが今ここでわたしが注目したいのは
特に父の友人から贈られたプレゼントの問題だ。

プレゼント(贈り物/現前/現在)の問題。

ハイデガーの場合、
それはフランツ・ブレンターノの
『アリストテレスの存在者の多様な意義について』だった。
然り、まさにこれこそ》Es gibt das Sein《だったのだ。

〈存在〉は贈物として気前よく与えられたものであった。
恐らくそれは幼い頃に妹を亡くしたハイデガー少年にとって、
特別な意味をもった出来事だっただろう。
それは妹との関係を取り戻すためのよすがであっただろう。

ピグマリオンの願望、わたしはそれを笑えないし、責めることもできない。
ハイデガーの存在への異常な愛情は亡き妹への執着の強さを物語っている。

存在を忘却しない。それは妹を忘れられないということであるだろう。
それがこのハイデガーの思索の本当の動機なのだ。

ハイデガーは愛を知らない人ではない。
実現不可能な愛を生きようとした人だったのだ。
その愛は余人には表明されない。しかし表現されている。

ハイデガーは死んで決して生き返りはしない妹の幻に、
その美しい幻影に憑依かれた男である。
存在とは妹のことである。神は妹を生き返らせてくれなかった。
妹は存在者ではなくなった。しかし妹の存在は永遠である。

ハイデガーは神を恨み、ひそかに神を否認する。
妹は自然神フィシスへと格上げされ、
存在者を存在させる性起の力となる。
万物は今や死せる妹から来る。
死せる妹は世界を背後から支配する。
大地の女神の秘密の名前をハイデガーは知っている。
その名はメスナー・マリーレ・ハイデガーである。

しかしこの問題はこれ以上深追いはしない。
次のケースを見て見よう。少年フッサールの場合。
彼もまたプレゼント(贈り物/現前/現在)を受け取っている。
晩年、弟子のレヴィナスに沈痛に漏らしたあの切れ味の悪いナイフのことである。
それをよく切れるように研ぎ澄まそうとして
刃金の部分を擦り減らし使いものにならなくしてしまったプレゼントの問題。

擦り減る現在の瞬間の痛みは、
フッサールの現象学の方法論的探求の
絶えず駄目になって再びやり直さねばならなくなる
悲劇の永劫回帰を物語るものだった。

優しい弟子のレヴィナスは
師匠のこの擦り減る現在の瞬間が、
擦り減りながらも無くならずに再生する魔法の瞬間であることを、
そしてその瞬間の漸消が逆に主体の主体化の条件である
位相転換(基体化)を可能にするものだということを
『実存から実存者へ』の中で証明する。

現在というこの不可思議なプレゼントのなかで、
常に失われたものは甦らねばならないのだ。