イポスターズを論ずるレヴィナスの頭に
 デカルトとその先駆者アヴィセンナの思想が
 二重写しに描かれていたであろうことは蓋然性が高い。

 井筒俊彦の『イスラーム思想史』によれば、
 アヴィセンナは存在(esse)または〈存在者〉を二種類に分けている。
 第一が〈実体〉(substantia)であり、
 第二が〈偶有〉(accidentia)である。

 両者を分かつのは〈基体〉との関係である。
 実体は他のものを基体としなくとも
 それ自体において存立しうるものをいっている。
 偶有は逆に他の自分自身で現勢的に存立するものを基体として、
 その中に内在しなければ自己の存立を保ち得ないもののことをいう。

 しかしながら、このことは勿論、
 何でも別なものを基体として、
 その中に存在するものは実体ではないというのではない。
 他のものの中に在ってもやはり実体であるものもある。
 それは、基体となるものが、
 それ自身で存立するのではなくて、
 かえって自分の内に容れるもの、
 自分に宿るものによって始めて現勢的に存立し得るような場合である。

 すなわち、その中に在るものを離れては、
 現実に存立することができない基体である時には、
 その中に在るものは基体の中に在りながらしかも実体である。

 こうして見ると、形相も質料も実体であることになる。
 アヴィセンナの思想においては、質料と形相は共に実体である。
 (井筒俊彦『イスラーム思想史』中公文庫p278)

 レヴィナスが「主体は実体である」という場合、
 それはアヴィセンナのこの基体に内在する実体の場合にあたるものを
 指して言っている。
 それは実体=主体がこの基体から引き離されては
 実存しえないからである筈がない。
 もしそうであるなら、それを実体ということはできない。
 それは偶有(付帯性あるいは偶然性)である。

 しかし、西谷修が強調していうように、
 この実体である主体は脱自的ではない。
 すなわち基体を離れて(基盤から引き離されて)外に出ている訳ではない。

 だがそれはこの実存者=実体が
 基体から切り離されてはありえないからではなくて、
 基体の方がその中に宿る実存者=実体を離れては
 現実に存在できないもの、
 現勢化しえないものであるからであるに過ぎない。

 ハイデガーの存在論的差異に対して
 レヴィナスはアヴィセンナの実体/偶有の存在的差異をもってきている。
 ハイデガーにあっては存在者は存在と区別されているだけであって、
 それ自体として区別されていない。

 例えば木村敏は存在者を自己/非自己に区分し、
 アヴィケンナは実体/偶有に、
 レヴィナスは自我/自己に区分する。

 重要なのは存在者が存在と区別されているかどうかということではない。
 それでは一つの自他未分化な存在者が存在するだけの話である。

 しかし問題は存在者がそれ自体において
 自己/非自己、
 自/他、
 実体/偶有、
 主体/客体、
 自我/自己というような
 双頭の怪物としてしかありえないということである。
 ハイデガーはこの問題をどこかで閑却している。

 レヴィナスが古ぼけた〈実体〉の概念を掘り起こしてきて
 ハイデガーの〈存在〉に逆襲していることの真の意図は、
 何も存在に対する存在者の優位をいわんとしてのことではない。
 むしろそれは存在者に対する実体、
 あるいは実存者の優位を主張してのことであるといえる。
 真の争点を見失うべきではない。

 『存在と時間』のなかで
 ハイデガーは「実存」ということばを
 「現存在それ自身の存在」という意味において使用している。

 レヴィナスによれば、
 実存者と呼ばれるべきである現存在は、
 単に物や道具(スコラ的意味でのexistentia)とは区別されるところの
 人間という存在様式において実存と呼ばれたり、
 また本質との区別において実存と呼ばれるべきではない。
 そのような区別は寧ろ安易なのである。

 実存というからには実体でなければならない。

 無論ハイデガーも実存は実体だと言いはするが、
 それは心身の綜合としての精神や自我を意味しないような自己である。

 しかしハイデガーのような言い方で
 現存在の〈存在〉の方を〈実存〉といってしまうと、
 〈存在者〉である方の現存在の実体性は見失われてしまう。
 逆に〈存在〉が実体化され、〈存在者〉は偶有になり下がりかねない。

 レヴィナスはだから実存の偶有に成り下がった存在者を
 〈実存者〉たらしめねばならなかったのである。
 それは〈実体〉はどちらであらねばならないかを示すことである。

 議論が非常に錯綜しているが、
 恐らくはっきりさせておかねばならないのは、
 非人称的存在は単に位相転換されて
 自己(自己存在)になればそれでいいということではないのである。
 それでは存在がまるごと存在者になったというような話でしかない。
 そうではなくて、存在は基体でしかないということが重要なのである。
 それはその中に宿りにくるものによらなければ
 現勢化して現実存在することができない。

 この場合、現実存在するというのは、
 実存主義的な意味で実存=現実存在というような
 existence の訳語として言っているのではない。
 とりわけ「実存は本質に先立つ」(サルトル)というような意味では、
 この現実存在するというのは、
 少しも実存するという意味をもっていないといえる。

 この場合現実存在するというのは、
 being in reality という程の意味にとるべきである。
 それは実存主義的な意味というより、
 寧ろずっと古典的なアリストテレス的(またはスコラ的)意味で
 エネルゲイア(現勢態)においてあるということである。

 木村においてもレヴィナスにおいてもアヴィケンナにおいても
 われわれは繰り返し現勢態・現勢化という概念に出会っている。
 実はここに導きの糸がある。

 現勢態ないし現実態といわれるエネルゲイアは、
 潜勢態ないし可能態と訳されるデュナミスの対概念である。
 このことは常識的レヴェルで知られている。

 後に詳しく検討していかなければならないが、
 今はこの常識的レヴェルで簡単に
 エネルゲイアとはデュナミスという潜勢的・可能的にあったものが
 実現したものであるということだけを押さえておくだけでいい。