ハイデガーは存在論的差異をいうことで存在者と存在を区別する。
 しかし、逆にそのことによって中性的な〈存在者〉が存在することになってしまう。
 わたしが何をいいたいかというと、
 まさにそれこそが〈存在者〉であるような存在者、
 存在者以外の何者でもないような存在者、
 〈存在〉という〈存在者〉、
 すなわちパルメニデスの球体が唯一、存在することになってしまうということである。

 ハイデガーの存在論的思考の最大の陥穽はたぶんこの避けがたい逆転にある。
 非対称的差異はそれが固定されていなければ、
 非対称的であるだけでは反転可能性を排除することはできない。

 むしろ対称的関係である場合以上に、
 それが非対称であるぶんだけ悪質で絶望的な事態を引き起こす。

 非対称性が反転可能性を孕むことは、
 図と地や分裂病者の世界をみてみれば容易に察しがつく。
 分裂病者の場合、この反転は悲劇的である。

 木村敏は、
 主客未分の根源的自発性から自己が非自己を分離しつつ
 自覚的に現勢化してくる場合の非対称的差異が、
 分裂病者の場合、逆転して、
 非自己が自己を〈客体〉として分離するという
 恐るべき事態に至ることについて語っている。

 木村の言うように、
 「この分離は外部的にみればあくまでも相互的・相対的であって、
 両者はまったく対等の比重で現勢化されるように思われる」が、
「自己の自覚的現勢化の構造」という観点から見ると
 そこにはどうにもならない非対称性がある。(「自己・あいだ・分裂病」)

 木村の考察が優れているのは、
 「自己」を安易に「主体性」と同一視せず、
 また「非自己」を「客体」とも「他者」とも切り離して考えている点にある。

 わたしが非対称的差異といっているものは
 木村が「自己の自覚的現勢化の構造」と呼ぶ「主体化」のことである。

 さて〈主客未分化な根源的自発性〉は、
 ハイデガーが〈存在〉と呼ぶものにあたっている。

 この存在に主体性という非対称的差異のヒビが入ることによって
 〈主体〉と〈客体〉が分離生成する。
 通常、〈主体〉はそのまま〈自己〉であり、
 〈客体〉は〈非自己〉つまり一般的な意味での〈他者〉である。

 レヴィナスを例にとって考える。
 彼は〈存在〉が〈存在者の存在〉に位相転換(イポスターズ)することを
 主体の主体化として考察した。
 それはハイデガーの存在論に対して
 主体性=主観性を擁護しようとする意図をもってなされた
 一種のハイデガー批判である。

 われわれの現在の文脈でいうと
 位相転換(イポスターズ)というのは、
 存在に主体性という非対称的差異のヒビが入ることであり、
 レヴィナスはそれを〈瞬間〉の生成として物語っている。

 レヴィナスのいう〈瞬間〉は、一種の裂目であり、
 存在の自己と非自己への分裂、
 木村の優れた用語法を借りていえば、まさに〈自覚の現勢化〉である。

 実はレヴィナスはそこで
 〈存在/存在者〉という用語法をとっていない。
 〈実存/実存者〉と言っている。

 実存は位相転換という語と関連が深い。

 実存(existence)とは実在性の基盤・基体からの
 引き離し(ex-sistere)を意味する語である。
 一方、位相転換は hypostase が原語だが
 これは通常は基体を意味する語である。
 実存者は基体から引き離されることによって生じる。

 ところでイスラム及び中世西欧のスコラ哲学における一般的な用法では、
 基体から引き離されても存立する(実存する)といえる存在者を
 実体(substance)と呼ぶ。これは特にアヴィセンナの用法である。

 レヴィナスのいう位相転換によって生じる主体・実存者は
 この意味において〈実体〉である。

 ついでだが、レヴィナスの思考を
 バタイユの脱自主義(西谷修)だの
 ハロルド・ブルームの宣伝したルーリアの容器の破砕論(合田正人)だのとの
 目につき易いトリヴィアルな関連ばかりから
 バタバタくそ忙しく考察する仏文系学者の習性は
 (それはそれなりにいいところもあるし学べるところも多いのだが)
 どうにかならないものか。

 もっと基本的で平明な教科書的哲学史からすなおに押さえてゆけば、
 たとえばマイモニデースなどよりもアヴィセンナ、
 ルーリアなどよりもクザーヌスという
 もっとよく知られていてしかるべき歴史的哲学者との関連を
 もっとひろがりのある視点でとらえられるし、
 その方が一般の読み手としてははるかにありがたいのだ。
 あまりにも神経質で専門莫迦的過ぎる。
 おかげで人が迷わされて迷惑する。
 学者であれば『迷えるものへの手引き』をきちんと書いてもらいたい。
 人を迷わせるような手引書を書くから自分も迷う羽目になるのだ。
 分析と批評批判ばかりに走って綜合や展望というものがない。
 他人から視野を奪い、自分の狭い関心事にひきずりこみ、
 思想の現代中心主義的近視眼的視野狭窄を演出することこそ
 現代の日本の思想状況の無意味な閉塞と痴呆化を招いているのだ。