存在と所有。レヴィナスのhypostase論の背後に、
トマス・アクィナスの用語法がどうもやたらとちらつくのは
なんとも気に懸かるところだ。

ところで、レヴィナスは実存者なき実存という
純粋に動詞的な非人称の出来事としての〈ある〉(il y a)の
なかなか己れを譲り渡さないという頑固な性質を
ハイデガーの〈es gibt〉のもつ豊饒さや気前のよさと対照し区別している。

この表現の含意の違いについては
ハイデガー自身が『ヒューマニズムについて』(1946)のなかで
元々指摘しているものである。

ハイデガーが自己解説するところに従えば、
ハイデガーの『存在と時間』における
〈存在がある〉(Es gibt das Sein)という表現は、
存在自体である〈それ(es)〉が
存在者に存在することを命運として〈贈与する〉
という存在の本質=現成である開示性(啓示性)
つまり存在の真理である非隠蔽性(アレーティア)
について語っている。

この存在の贈与=自己開示は、更に後年、
性起=出来事(Ereignis)についての思索へと
深化していったことについては言を俟たない。

この性起の裏面には脱去(Entzug)または
脱=性起(Enteignis)の次元が語られている。

レヴィナスの〈il y a〉は、
〈es gibt〉=Ereignisの背後にある
このEnteignisの側を寧ろ描出するものである。

ハイデガーによれば、
存在と時間の双方を開示/現前へと譲渡し、
この双方を相互帰属=相互依拠しあうものとして結び付けながら
一つの自己固有性として存在者の各自に与えることであるこのEreignisは、
しかし、この贈与することそれ自身の裡に
自己抑制を、沈黙を、Ereignisそれ自身の差押え
(Verhältnis/手控え・比例・比・関係・間柄・懐具合などの意味がある)
である決して譲り渡さぬものを所有する。

それは、
〈存在〉それ自身が存在者としては存在することがないという自己抑制であり、
またこれを存在の様相からではなく時間の様相からいえば、
時間それ自身が現前を届けながら、その背後に現在の拒絶と留保、
つまり現在となることを拒絶する既在、
現在となることを留保する将来(到来)として遊動していることである。

いわば、脱=性起(Enteignis)の脱去において、
逆に、永遠に現実の背後に伏在する非在の次元が必然的に召喚される。
この存在しないことの必然性の夜のなかで、
性起=出来事(Ereignis)の次元とはちょうど正反対のことが起きる。
そこでこそ、まさしく〈存在〉自体は必然的に存在者として存在し、
そして、また、このパルメニデスの一者だけが、
その永遠の現在のなかに譲渡不要なその存在自体性だけを抱きしめて
まさしくさかしまに性起してしまうのである。
〈存在〉はそこに自己自身を持つ、所有する。
〈存在〉が〈存在〉であること、
それはこの不可能な絶対的同一者であることの自己贈与がある。
〈自己〉、それは決して譲り渡されることのない
自己自身へのプレゼントなのだ。
しかし、この決して譲り渡されることのない永遠の現在から、
それにもかかわらず、存在は贈られ、そして、この現在は生まれ出る。
全き不毛の大地の上の奇妙な自然の不可思議な豊穣。
なんと不思議な構造でそれはあることか。

存在と時間は、それ自体としては、
己れを全面的には与えず譲り渡さない、
非人称的で顔のない、主体なき〈性起〉であって、
この〈性起〉はより自体的につきつめていけば、
〈脱=性起〉または〈il y a〉という無頭の怪物である。

これを性起の側から、光の側から、ハイデガーの側から、
送られまた贈られて受け取る側から考察してみるなら、
この側面においては、存在の真理である現在=現前は、
存在論的な様相では有限性・可能性・偶然性として記述されることになる。

存在者の存在は存在者の所有となっているが、
それは有限な存在、己れの存在可能であるような存在、
偶然的な存在、つまり他のようでもありえる、
他者を己れの能力ないし可能性として持ちながら
偶然たまたまこのようであるという意味で
現実的に存在しているということであるだろう。

様相同士の関係をより見やすいかたちで言い換えるなら、
存在者は己れの無限の存在可能として伏蔵=潜勢態に他者性を所有しつつ、
そのなかから偶然性によって有限化して自己化しているということになる。

存在者の自己は偶然的で有限的である。
それが他ならぬこのこれであり、このようであることに必然的な根拠はない。

現実存在は偶然そこに引き渡されたものに過ぎないのであれば、
存在において存在論的に恣意的なものであるに過ぎない。

つまり幾らでも他と置換え得るもの、取替えのきくもの、
死んだとしてもすぐ身代わりによって埋合わせのきくもの、
大勢に影響のないもの、ということになる。

つまり存在者は存在の全体性
(それは存在可能の全体性である)から見て、
それが誰であっても構わない無差別で未規定なものに過ぎないのである。

現存在とは要するに役職名であり、役割であり、ポストなのだ。
それは存在の〈現〉(Da)のただの無名の番人に留まる。
存在にとって都合が悪くなればいつでも首のすげ替えがきくのである。
存在者の身の程(適合性・特質・固有性)は存在が一方的に定め、
判断し、人員配置し、分担するものであるにすぎない。

存在者に意志の自由はない。その人格は実は無視されているのである。
存在が存在者に求めるのはその偶然的で有限的な存在の分け前に与かることであり、
そして存在が決定したその固有存在に適応するという受動性だけである。

この存在は問うても応答しない。
寧ろ存在の一方的な期待に応えてその一方的な命運を命令として
聴き従わねばらならぬのは人間なのである。

このように考えるならば、レヴィナスが
ハイデガーの非人間的(ノン・ヒューマニスティックな)存在論に
反発する動機は生き生きと見えてくる。

一見優しげで気前のよい豊饒な自然のようにみえるこの性起たる存在は、
実は信用のならない狸親父であるかもしれない。

非人間的な抑圧支配体制に過ぎぬものを
自然といいくるめて美化することは、
大企業のいけすかないお偉方が毎日やっていることであるに過ぎない。

ハイデガーの自然概念は技術やテクノロジーとの間に差異を立てられない。
彼はそれを製作的=生産的自然とみてしまっているからである。
それは物を生産する自然である。

彼の見方に従えば、資本主義は自然である。
そして将来から時が時熟するという彼の有名な定式や、
サルトルに口真似されることによって
より箔が落ちて本体があらわになっていってしまったといえる
〈投企〉という思想は、古代ギリシャよりもいっそう
現代の資本主義社会にこそ適合したものである。

実際これほど株式会社的な言い回しはないだろう。
サルトルの実存主義であれハイデガーの後期思想であれ、
それは戦後復興期の資本主義の精神によく適合したものであった。

未来のために将来のために全体のために現在を犠牲にすること、
それが人間実存の自然であるというなら、
実存主義はヒューマニズムではなく寧ろ反人間的資本主義なのである。
それが構造主義やサイバネティクスによって取って代わられたのは、
当然の成り行きであった。

ハイデガーが己れの哲学をヒューマニズムではない
と言ったことはこの意味において正直な発言だったといえる。

彼は戦後資本主義社会体制のイデオローグであるという
己れの新たな使命を自覚していたのである。
その彼が晩年において哲学はもうおしまいだと宣言し、
サイバネティクスがそれに変わるだろうと嘆くのは、
逆に彼の哲学が何に支えるものだったに過ぎないかをあらわにしている。
つまり人間の学問による管理である。

愚かしい発言である。哲学はもう終わりだというのは。
サイバネティクスが倫理学や美学の代わりになってくれるとでもいうのか。

しかしそのことは一先ず措く。問題はレヴィナスである。

レヴィナスの〈il y a〉(Enteignis)は性起の裏面に、
有限性・偶然性・可能性とは違う様相概念を識別している。
すなわち無限性・必然性・不可能性である。

性起は己れ自身を譲り渡さない。
この譲渡不能=疎外不能の存在それ自身の
自己固有性(特質)をこそレヴィナスは曝露している。

レヴィナスの実存者とハイデガーの現存在の性格の違いは、
立場の違いである以前にまさに性格の違いである。
光の中には存在=権力からの疎外がある。
しかし闇の中には天使とイスラエルの格闘がある。
この格闘は相続権を巡る血肉の争いである。

性起それ自体の自己所有としてEnteignisは
異妖な偏執的把握(ブランショ『文学空間』)の相をみせる。

存在に先立つ所有。
ここにこそ存在論をめぐる今日の巨人の争いの
真の争いの起源があることにわたしたちは気づくだろう。

実は存在論の問題は、それに先立つものの
所有・譲渡/不譲渡・贈与または剥奪の問題なのだ。