ディグナーガのアポーハ論
はたんに「他者の否定」なのではなく
「自己の否定」「自体的なものの否定」でもある。

すなわち自相は真っ先に還元され、
普遍的なもの(共相)に内属する特殊として
そのなかに繰り込まれることができないものとなる。
これは自相(個体)のなかに
何らかの類的本質が実質的には反映しないということを意味する。

真の問題は、自相・共相の間の
実質的な相互媒介不可能性及び相互還元不可能性にある。
自相と共相の間に乗り越えがたい異別性のニヒルな裂け目を
アポーハ論は置いている。

そして共相が、各々己れの自己同一性を照らし合わせて確認するための
自相との如何なる対応関係も参照関係も持たないとすれば、
それは共相がいわば何も映らぬ鏡の前に置かれているということ、
共相それ自身と対応(写像)するような
自分自身の対応像(自相)をもたぬということである。

共相はいわばそれ自身の無に直面する。
これは自相にとっても同じである。
自相は共相に出会うときそこに何も見ないはずである。
自相もまたそれ自身の無に直面する。

ということはアポーハ論とは、
自相(個物)・共相(普遍)が共に否定されているということ、
自己同一性ないし身元確認をするための手掛かりを
ポジティヴにはもたないということ、
また自己同一性を成立させるための相補的対(分身)を
言語において・概念においてもちえないでいる
という奇怪な局面を描いているということになる。

共相が他者の否定によって成り立つとは、
共相同士が互いに示差的に仲良く支えあっているような
平和なソシュール的なラングの共時体系における
各項(記号)の相互依存関係を頭に思い描くこととは
全く違った物の見方を強要するものである。

共相が自相という己れの対応像(写像)の現前を欠くとは
共相において自己同一性ないし自同律が成立していない
ということを意味する。

共相は己れの身許確認を他の手段に訴えねばならない。
ここでソシュール的なヴィジョンを持ち出すと、
一個の共相は他の共相と共に一つの示唆的な共時体系の全体性に、
つまり共相の共同体にその一成員として内属していると考えられる。
つまり共相間の相互依存関係に支えられてあることになる。
それは全体の部分であるということになる。

示差的に示されるその有機的全体性に基づいて了解される
己れに相応しい部分(パート)ないし役割(ロール)に
その共相は己れをパズルのピースのように当て嵌めることによって
全体秩序のなかでのおのれの所定の位置を獲得することが
如何にもできそうだし、またそうであるべきであるようにみえる。

つまりそれは共相が己れを類のなかの種(特殊)として見いだし
位置付けるということである。

そうであればことは易しい。

しかし、ディグナーガのアポーハ論の強いるヴィジョンは
そこに恐ろしい逆説の罠を置いている。

パズルのピースの比喩を使うとこの逆説は見やすい。

一個のピースは己れの位置を見いだすには
全体の完成したパズルから自分自身を引き抜いて、
共同体から独立した孤立相の真空に立たねばならない。
その孤立相からパズル全体(共同相)の中に再び舞い戻って
己れを所定の位置に当てはめるには、
そのパズルの全体の中に一か所だけ
ピースの抜け落ちた場所を見いだせばよい。

この場合、ピースおよびピースを当てはめる
穴の輪郭の形のことは問題とならない。
この形が同じであることに基づいて
ピースの位置決めはなされるのではないし、なされてもならないだろう。

何故ならそのような同形性に依存することは、
先程否定された自相との同一性
つまり対応像の現前を条件とするロジックに訴えることだからである。
したがってそれは禁止されねばならない。

またそもそも形は示差性を問題にする場合には全く意味をもたない。
ただ単に互いに形なき差異の線によって
各ピース同士は連結しあっているというのが示差性であって、
そこでは形というものは寧ろ不定形であるというのが
正確な描写だからである。

各ピースはそこでお互いにお互いを有機的に支えあって機能している。
有機的とは全体が各部分に反映し
各部分が全体に反映しあうというような関係である。

さて孤立相へと一個の共相が引き抜かれた。
するとパズルには一か所欠けた場処があり、
その空いた場処を埋めることだけが本質的な問題となる筈である。
空所の補充以外の問題は
共相の示差的自己発見においては問題とはなりえないからである。

だがパズルは部分と全体が相互に支えあう関係にある以上、
実は一個でもピースが外れると全体が崩壊してしまう。
つまり理想的な共同体の秩序の安定性が、
相互依存関係でできている以上、
この崩壊は避けがたく起こって了うのである。

共相はおのれ自身が欠け落ちた穴を二度と再び見いだすことができない。
全体秩序はピースのカオスへと崩壊している。
示差的な所定の位置という
理性的かつ理想的な相互依存性・共同性の固定的静態系を
前提として考えられる示差的な身許確認は、
実はその問われているピースが
全体に組み込まれている限りで可能であったものに過ぎない。

ディグナーガのいう
「他者の否定」つまり非他性によってしか
共相がありえないというアポーハ論が、
ソシュール的なヴィジョンより恐ろしいというのはここにある。

ソシュールは一個の記号(共相)を
安定で理性的な相互的かつ対称的な示差性、
相対的な差異の中で位置決めする。

しかるにディグナーガの場合、
共相は孤立相において単独的に問われている。
すると問題となっている共相は、それ以外の全ての共相に対立させられる。

それは相互に異なるというような意味での
相異性(differentia)の内に置かれているのではない。
そのばあい共相は全体的に相互規定しあっており、
差異は整理がついた差異であるといえる。

だが、一個の共相が、それ以外の全ての共相に対立させられるとき、
整理のついた相互的・共同的差異である相異性(differentia)は、
一個の巨大な差異の塊、
渾沌とし雑然とした絶対的で非対称的な差異へと変貌している。

差異そのものが一つに集中し、
そのなかで相互規定性は崩壊して
一個の化物じみた未分化に還元されている。

これがディグナーガのいうまさに恐るべき〈他者〉である。