ディグナーガは或る意味でソシュールに似ている。
まず彼は個物(語の指示対象)を語の表示対象とは認めず、
言語の外に排除する。
言語は普遍的なものだけを表示する。
しかしこの普遍的なものも外界に対応する客体をもたない。
実在するものがあるとしたらそれは個物だけであるから、
言語のうちに確保された普遍的なものは
完全に宙に浮いた思考の虚構であるに過ぎない。
それはポジティヴな何かではない。

こうして言語としての言語が
存在とは切り離された純粋な領域として現れて来るが、
ディグナーガがそこに見いだすのは
ソシュールを彷彿とさせる
飽くまでも示差的(ディファレンシャル)な体系である。
名辞はディグナーガにとって概念と表裏一体である。
これはちょうどソシュールにおける
シニフィアンとシニフィエが表裏一体であるのに似ている。
名辞は概念についた名前ではない。
つまり概念は名辞の指示対象として
名辞を離れたところに実在する何かなのではなくて
名辞と表裏一体に表示されるものである。

しかし、ディグナーガのアポーハは
何かしらソシュールの示差性よりも恐ろしい否定の鋭さをもっている。
ソシュールの音声によるシニフィアンの
示差的体系であるラングにおける一要素、例えば〈牛〉という語は、
その外の〈馬〉〈海〉等々という風に数え上げることのできる
多くの外の項から相互的にまた相対的にやわらかく弁別され識別されるもの、
そして何かしら手に入れることのできる実体の部分であるといえる。
差異はここでちょうど一個のケーキを
諸部分に分割するナイフによる切れ目のように
ひっそりとして慎ましい。

だが、ディグナーガのみせる世界は
そのナイフの刃がするどくこちらの目の前に
とびかかってくるような恐ろしい光景である。

ソシュールのラングは
いわばシニフィアンの側から差異の体系を見せている。
ディグナーガはこれを裏返してシニフィエ(概念)の側では
どんなことが起こっているかを剥き出しにする。

彼の説くアポーハとは、普遍的な概念を
「他者の否定」「他者の排除」によって説明するものである。

つまり〈牛〉という語の表示対象である概念は、
確かにすべての〈牛〉に共通する性質としての
〈牛性〉(共相または共通本質)であって、
個々の牛(自相)とは関わりがないものである。
その共通性質(個々の牛を通約するような共通分母)は
すると別のところからもってこなくてはいけない。

それは牛以外のものすべてを否定し、排除するという
他者(矛盾概念/補集合)の否定(アポーハ)によってしか不可能である。

〈牛〉という共相は
〈非牛の否定〉という純粋に否定によって創られたものであって、
如何なる実在的個物(自相)にも
実在的普遍(自相における共相)にも根拠づけられていない。

つまり、アポーハという観点からみれば、
普遍も個物も全く存在しない
(実念論も唯名論も否定される)という結果になる。
そして、ディグナーガは、
類・個物・類と個物の関係(sambandha)・類の基体を
語の表示対象とする立場を批判する。

アポーハ論は、言語としての言語、及び概念としての概念の他に
還元不可能な独異で否定的な特異性を浮き彫りにする
恐るべき二重否定説であるといえる。

つまり実在的普遍に個物を内属させるような実念論的立場
(インドにあってはヴァイシェーシカ派がこれにあたる)も、
唯名論的に普遍的概念の起源を
経験的に知覚される実在的個物に求める立場も斥けられている。
普遍の根拠は個物にはなく、個物の根拠は普遍にはない。

アポーハ論は、
例えば実念論と唯名論の折衷を図ろうとした概念論
(例えばアベラール)とも全く違っていて、
実はまさにこの概念論をこそ
一番最初に不可能にしてしまうものだといえる。

普遍と個物の関係を切り離し、
次いで普遍そのもののポジティヴな
自己同一的存立(実体的な実在)をも葬り去って了うとき、
ある意味では言語と概念には虚無しか残らないという恐るべき結果になる。