〈他ならぬ=このこれ〉。
ニコラス・クザーヌスの非他者(non aliud)と
ドゥンス・スコトゥスの此性(haecceitas/eccéité/Dasein)とは
通常そう思われている程端的に結び付くものではない。

〈他ならぬ=このこれ〉は、
非他者(non aliud)とこのもの(hoc aliquid)の、
すなわち、非他性と単一性の
何かしらそこに具体的に固定指示されてある
「何か或るもの(aliquid)」に於ける結合体なのだ。

むしろ〈他ならぬ≠このこれ〉なのである。

非他者が単一的個体になることの内には、
また逆に単一的個体が己れを非他的単独者として見いだすことの内には、
柄谷行人がクリプキやマルクスを引きながら云う以上に
恐ろしい命懸けの飛躍の局面がある。

非他者と固有者は必ずしも一致するとは限らない。
それは換言すればその一致によって出現する〈他ならぬ=このこれ〉は、
必然的なものではなく偶然的なもの(出来事)でしかありえない
ということである。

一致が見いだされないとき、
〈他ならぬ=このこれ〉は
その内的同一性を支える非他性-此性のダブルバインドの結節を失って
文字通り壊滅してしまうだろう。

非他者は、それだけでは
どんな積極的(positive)な存在者も与えない空虚な〈場〉である。

ラカンはこの非他者に気づいていた。
そこには何もないのだが、
この非他者はその目を撃つ虚無を埋めるために
充実した存在者を必要不可欠のものとして、
つまり欠如(欲求)の不可能性として要求するものである。
この要求に応答することによって〈もの〉は〈そこにある〉に来る。
その空虚な〈場〉を埋めるためにである。

しかし、非他者と具体的個体の間の
埋合わせねばならないが故に
埋合わすことが実は永久に不可能である根源の分裂、
アナーキズムの還元不可能な二律背反の構造について
重要な示唆を与えてくれるのは寧ろ仏教唯識派の論理学である。

ディグナーガのアポーハ論は、
事物の共相(普遍=一般のなかの特殊性)と
自相(それ自体においてあるところの個体)を厳しく峻別する
一種の両頭断法であるとみることができる。

ディグナーガは共相における概念(名辞)と
自相における具体的実在の個物との間の連続性を否定する。

つまり共相は、
種々雑多なものでありどれとして
同じもののありえない自相に根拠づけられているのではなく、
また各々の自相に共通する本質を抽出したものでもない。

これを簡単にいうと
〈火〉という名辞が表現する火というものの一般概念は、
その名辞が指示するそこに燃えている具体的な火(個々の物)とは
無関係であるということになる。

インドにおいても
中世西欧の神学におけるような普遍論争
(個物が先か普遍が先か/個物が実在するのか普遍が実在するのか)
があった。
問題の形は西欧中世のそれとよく似ている。

即ち西欧中世の場合は
ポルフィリオスの問いを火種とし、
実念論者と唯名論者の政治がらみの対立に発展していった。
すなわち、
普遍的なもの universalia である類と種は実体として存在するか、
それとも人間の思考のなかにのみ存在するに過ぎないか、
それが問題だったのである。

インドにおいては既に一世紀頃から
ヴェーダの教令解釈をめぐって
「語は普遍を表示するのか個物を表示するのか」
(ミーマーンサー・スートラ1・3・30~35)という論争が起こった。

語の表示対象が普遍か個物かというインド型の問いも、
真に実在するものは普遍か個物かという中世神学型の問いも
根本的に同じことを問題にしている。

それは真理は、或いはより価値あるものは、
普遍か個物かという争いである。
両者の間の問題の枠組の細かい差異にはここでは立ち入らない。

そこに登場するディグナーガは
いわばインドのウィリアム・オッカムとでもいいたいような人物である。

オッカムにとって普遍は単なる名辞であり記号であって
実在するものではない。
西欧中世の普遍論争の終わりに至って、
インドの普遍論争では始めにあった問いが
見いだされているのは注目に値する。
オッカムは普遍か個物かという問題が
語の表示対象は何かという問題であったことを発見することによって
普遍論争に一応の終止符を打ったのだといえる。
記号としての言語は普遍を表示するが、
それに対応する実在は見いだしえない。
他方個物が実在するのは自明である。
オッカムは普遍の実在を記号としての語の表示対象に還元する。
普遍や概念は語に過ぎない。
実在するのは直接知覚可能な個物だけであり、
真理はこの実在する個物の上に見いだされねばならない。

語の表示対象が普遍であることについて、
西欧中世の実念論者もオッカムのような唯名論者もさほど違いはない。

インドにおいては語の表示対象が普遍であるという立場の内部で
その普遍が客観的に実在するとする
ヴァイシェーシカ学派(インドの実念論者)と
ディグナーガのアポーハ論が対立している。

オッカムと同様にディグナーガにとっても
普遍はいわば声の風であるに過ぎない。
しかしディグナーガは普遍を否定するだけではなく、
個物をも否定してしまう。
普遍が虚しい風であるなら個物も儚い煙であるに過ぎない。
この点でディグナーガはオッカムを追い抜いている。