自己規定(反定立)と自己定立は矛盾する。
そしてこの矛盾はヘーゲル的に止揚されることもありえないし、
ライプニッツ的に埋合せられることもありえない。

特異点というものを認められないライプニッツの
予定調和的=充足理由律的=不可識別者同一律的な宇宙論にあっては
還元不可能な差異は想像的に充填のきくものである。
その結果は悪(偶然性)を神の視点から必要悪、
つまり〈必然〉悪として合理化してしまう彼の弁神論の
腹立たしくおめでたい性質によくあらわれている。

単子論では宇宙には生命のないところは一つもない
ということになっているが、
これは神(存在)の対抗者である悪や無(空虚)や裂目を
つまり二元性を認めないということである。

デカルトの物心二元論
つまり事物の最高類として
物的実体substantia corporeaと
思考実体substantia cogitansを
実在的に区別する思想に敵対するライプニッツは
デカルトが作り出してしまった宇宙のヒビ割れに脅えたのである。

また、この自己規定(反定立)と自己定立の根本矛盾は
フッサール的に判断停止=還元することもできない。

現象学的還元は定立を括弧に入れることで
規定との間の不可避的齟齬を辛くもかわそうとする
巧みな逃口上(プレテクスト)=自己防衛(プロテクト)である。

実証主義と批判主義の戦場、
つまり定立と規定の和解不可能な原理的矛盾から生じる原理的論争から
確実性を、つまり新たな原理を求めて
デカルト的に撤退するフッサールの方法的懐疑、厳密主義は一種の秘密主義である。

裏面にはゲーデルがいる。
決定不能性ないし不完全性の証明は定立の根拠の不在を暴いた。
定立の根拠の不在とは定立を規定することの不可能性であり
また定立を規定と調和させることの不可能性である。

不完全性の定理はエンテレケイアの終焉を告知するもの、
従ってヘーゲル的な弁証法的目的論も
ライプニッツの微積分法的目的論も有限でしかありえない
ということを暴いている。

ラッセルの論理階梯論も、また要するに新手の
ライプニッツ=ヘーゲル的体系主義に過ぎない。
しかしゲーデルの証明は
逆に実はカントのあの耐え難いアンチノミーの不可避的回帰を意味するのである。

規定された自己(A1)と
定立された自己(A2)との
等しさ(A1=A2)として自己同一性を記述するとすれば、
このようなものは円積法のように厳密に形成不可能である。

同一性とは窮極的には規定と定立の同定であり等置である。
それは実際上、指示すること命名することでしかありえない。

指示すること命名することは、どのような場合であれ、
自然的に定立されてあるところの物(質料)を
まず無名の〈このもの〉として際立たせ、
その無名の現前の恐るべき渾沌性に脅えながら
それを有名(形相)の秩序のなかに規定的に置換えること、
位相転換することを離れてはありえない。

ところで規定とは純粋な差別相であり、形式的なものでしかありえない。
しかし規定が目的とするのは内容の生産と保持である。
規定は従ってその内に常に内容を物自体とは別に定立している。
その内容がここでいうA1である。
それは指示された〈このもの〉自体A2とは別である。

シニフィアン(記号表現/聴覚映像(イマージュ)/意味するもの)は
従って、指示スルモノではありえない。
寧ろシニフィアンは、
シニフィエ(記号内容/概念/意味されたもの)を介して
間接的に指示対象(指示サレタモノ)を指示するが、
それじしんもまた別の指示対象(指示サレタモノ)となりうる。
寧ろ指示スルモノとなり得るのはシニフィエの方である。

位相転換は常にその都度反覆されねばならない。
レヴィナスのhypostaseの意味でわたしは位相転換と云っているのである。
常にその都度反覆されねばならないスピンとして位相転換は遂行されている。
定位することまた定立することは瞬間的である。
すなわちそれは刹那にして滅する。
自己定立は従ってつねにその振り出しに戻る。
実体は実体としての限りで持続するものではなく、
常に基体との関係を締結し直すという、
位相転換のスピンの運動によってのみ
実体として受け取り直されてあるのだ。

それを離れては〈自体それ自体〉
(この用語もえらく不気味な言い方であるが)は
不気味な純粋質料にして得体の知れない無限定のアペイロン、渾沌でしかありえない。

位相転換はこの意味でこそ一回的で反覆的である。
一回的で反覆的なことは、
同一物のスタティックで永続的な持続というのとは異なる様相で持続を創り出す。

また、それは子供がある時点において誕生し
その後持続的に生存するというような場合の
〈誕生〉という出来事の一回性とはまた別である。
あらゆる出来事が常に今ここにおいて一回的であり反覆的なのだ。

それは例えば創造神と同一視された不動の動者が
宇宙創造の第一原因として一回的に天地を創造した後は引退して
その後は慣性運動的に宇宙や事物が存在し
自己展開してゆくというようなニュートン的な宇宙ではない。

自己規定と自己定立の間の距離(apostase)は
還元不可能な分離(separation)として保持されなければならない。
つまりこの距離は、アリストテレスがいうような
連続的距離(diastema)として思惟されてはならない。

このようなディアステーマとしての距離を切り離すような
切断の距離・非対称的差異の距離であるアポスターズを埋合わせ、
連続性によって平板化してはならない。

不連続性を保持することは、
自己同一性の理念にとってはまさに犠牲を払うことであるが、
人格の尊厳と他者の自由を逆説的にも基礎づけるという
より崇高な動機に従うことである。

アポスターズはイポスターズの飛び越えねばならぬ無の崖として
その更に下にあるものとして示されねばならない。
すなわちラカン・ドゥルーズ・レヴィナスらが
それぞれの異なる仕方で示そうとした〈他者〉の必然性に
わたしは統一的な理解を敢えて与えることを企てたいのである。

アポスターズの思考は、
キルケゴール的な逆説弁証法の更なる徹底であり、
故に、反綜合を原理とする異定立の弁証法である。
それは背教の弁証法すなわち分裂(シズマ)の弁証法である。

換言すれば、これは両刀断法によって
二重拘束の三重苦に過ぎない弁証法的自己同一性のゴルディアスの結節を分断し、
人間に三位一体の神格を取り戻させるアレキサンダーテクニックというべきものであって、
帝王学と同時に精神療法をも意味するような哲学を破壊建設することである。

破壊建設とは、積極哲学(シェリング)へと位相転換された脱=構築を意味する。
それはあのデリダのもって回った迂回論法を
ヒトラー的トロツキー的黙示録的語調へと変換することである。

産婆の中絶(間引き)に始まる排中律的弁証法の歴史を終焉させること。
寧ろソフィスト的弁論術、いやデマゴギーとボナパルティズムへの思考革命こそが必要なのだ。

既に人間に如何にして器官なき身体を創ってやるかというアルトーの第一命令は
ドゥルーズ&ガタリによって実行された。
しかし、ヘリオガバルス=戴冠せるアナーキスト、
或いは、正確にこれと同じことを考えていたクロウリーの表現によれば、
戴冠し征服する皇子ラー・ホール=クイト、
またピエール・クロソウスキーによれば
バフォメット(それはクロウリーの魔法名でもある)の誕生はまだである。

ホルスのアイオーンとは、超人=子供=アリスの世紀であり、
アンチクリストの世紀でなければならない。

ジル・ドゥルーズとアレイスター・クロウリーは同一の理想に仕えている。
その思想は実は表裏一体なのだ。
ちょうどフィリップ・K・ディックと
そしてピエール・クロソウスキーが表裏一体であるように。

シミュレイクレムの宇宙に
ロマンティッシュ・イロニーも
ソクラテスのイロニーもありえない。

それは厭味なオトナの
〈思い上がり・ひねくれ・わざとらしさ〉(ビンスヴァンガー)の
要するに知ったかぶりの似非哲学に過ぎなかったのだ。

あるのは健全なメールヒェンの希望の原理であり
魔術的観念論であり存在の永久革命だけである。

それはロマンテッシュ・ヒューモアの精神
(エルンスト・ブロッホ&ノヴァーリス)によってのみ開かれる新しい御世なのだ。

童心を創造すること。
童心こそが真の美学の根拠となり得る。
童心はイロニーを嫌い、ヒューモアを愛する、真にニーチェ的な精神である。
しかしまた童心はアルトーの云うような意味での残酷(クルオテ)でもある。
〈残酷〉? いや、寧ろわたしはそれを紳士淑女の優美な〈冷酷〉の品性として、
寧ろアポロン的に捉えたいのである。

ディオニュソスは確かに童神である。
しかし余りに使い古されたディオニュソス的という形象は、既に面白くも何ともない。

むしろアルテミスの〈弟〉としての、
〈従者〉としての、そしてまたアポルオン(破壊者)としての、
アルシエルとしての、地底の破壊的な暗黒太陽神としての、
二重に野蛮で二重に異教的なアポロンの本来の姿の方が
寧ろ遥かにデモーニッシュで
ディオニュソスよりもディオニュソス的であることを思うべきである。

酒の神であるディオニュソスは、既にして毒を抜かれ
真のオルギーをもたらすそのスピリットを失った俗人でしかない。
しかもアルコールはLSDの足元にも及ばない蛆虫のドラッグに過ぎない。

そのようなジャンキーは子供の国にはいらない。
童心はそれ自体において怜悧にして品性を心得ている。

酒に酔うこともエクスタシーもなく
それ自体においてその神性の内に定位しているのである。

真の人間である童心は、
酒の媒介無くして全能の神であり、転輪聖王である。
目を開けば、素面のままで世界が美しいことを認める風流な魂である。
童心は風流と幽玄を解する。
それは童心が強者であり、魔法使いであり、過激な革命家だからである。

アポスターズは規定と定立の仲を引裂き、
寧ろ還元不能な差異の顕現(エピファニー)を永劫回帰させ、
あらゆる綜合(ジンテーゼ)を難破させる絶対的に他なる者をこそ
その黒々とした宇宙の非連続的亀裂の裂目に召喚する積極的虚偽の弁証法である。

宇宙を構成するあらゆる単子は、むしろ全て重力崩壊星(ブラックホール)であり
相互に他に還元不能な特異点として、裂け目として、再認されねばならない。

一般性の宇宙/目的論的理性によって統合された宇宙、
存在のアナロギア(analogia entis)によって統一され
同質の媒質に浸透されて平滑化された宇宙、
あらゆるNichtsや他性=単独性(異他性diversité)を止揚・充填・還元・隠蔽(それぞれヘーゲル・ライプニッツ・フッサール・ハイデガーの〈真理〉に対応する)することでなりたつ同一性の自己現前の宇宙を引き裂くこと。

自己規定、それはどす黒い毒の線であり鉄条網である。
そのようなもので自己定立を縛り付けることは魂を損ねる。
わたしたちは寧ろいつもこの偽りの正しさである自己規定の内に
自己を定立しようとして自らを純粋に肯なう能力を失う。

自己規定は自己定立を見失わせる。
自己規定は、ヘーゲルが皮肉にも正しく自己否定・自己疎外といったような
凍れる鏡であり恐るべきメドゥーサの瞳である。

そのようなものに適応して、
つまりそれを己れに相応しい(自己固有な)ものとして引受け
自己同一性を形成することは、単に自己否定であり自己石化であるに過ぎない。
だからこそ自己規定と自己定立を引き離し
自己同一性という綜合を(一先ずの話ではあるが)拒絶しておくことには
一定の価値があるのである。

否定の否定によって自己定立の生気ある純粋な肯定性(positivité)は
回復されるとはいえない。

一度否定=疎外の門をくぐってしまえば、
その人の人格は死んでしまうのである。
否定の否定は単に形式的に肯定を作り出すだけである。
無論わたしのこの議論も形式的なものであるのだけれども。

ヘーゲルのいう肯定は、
実際には否定の否定という止揚を意味するに過ぎない。
そして止揚は最初の肯定である定立を高めているのではなくて、
実際にはそれは肯定性へと止揚された否定性であるに過ぎない。
システムを形成しその梁や柱をなすのはどこまでも否定だけである。
否定は重苦しく原初的肯定の大地にのしかかるシステムの重圧となる。

ヘーゲルの哲学はメフィストフェレス的である。
この霊(Geist)は常に否定することしかしない。
原初的肯定はたんに下からそれを支えるための基盤=基体として
アトラスとして要求されているにすぎないのだ。

基体から引き離されてあることであるような実存する実体は
抽象的な幽霊であるに過ぎない。
このような意味での実存することは疎外である。
脱自とは単なる疎外である。
この疎外=脱自という追放を
それが存在のうちに投げ込まれていること(被投性)と記述するもの
(ハイデガー型)であれ、
鏡(意識)という似非基体のうちに反映として
一時的に転記されていること(対自)として記述するもの
(ヘーゲル型)であれ、
それは自己同一性を必ず何らかの〈死〉を植えつけらえたものとして
構想してしまう。

 自己規定とは
 実際上空虚な抽象的他者性であるにすぎない死の鏡に
 媚態的に立場を置き換えることでしかありはしない。
 相手の身になって考えること、他者の立場に身を置くこと、
 それを通して自分自身の姿が相手にどう見えるかを
 客観的に反省すること、
 それは自分自身を客観化することであり、
 結局は現実的な他者には少しも関わらず、
 寧ろ他者に対する無関心であり、
 ただ自己にのみ専心するありようでしかないだろう。
 それは実は自己を疎外することであるだけではなくて、
 現実的他者との直接的対面の場面を先送りすることであり、
 他者をも喪失することである。

 対面ではなくて体面にかかずらわることによって
 実は自己にも他者にも冷淡なガラスの仮面の透明な不透過性によって、
 常に双対であり双面であるところの〈顔〉を切り離してしまうことである。
 それは愛を不可能にしてしまう。

 レヴィナスが自同者と呼び、
 デリダが代自(それは代他でもある)といって批判するのは
 このような否定の仮面=鏡面のことである。
 それは死の壁であり、
 心の世界にパルタージュをもたらす抑圧=沈黙の壁(アリス・ミラー)である。

 それは内面化されつつ内面と外面を遮断して通行不能にする
 (そしてそのことによって内面と外面を形成するのだが)関所であり、
 掟の門であり、心の中のベルリンの壁
 そして嘆きの壁、そしてまたアウシュヴィッツの壁である。
 それは自他に偽りの弁別を与える邪悪な自己差別である。
 それは差異ではない差別であり、
 あらゆる差別を生み出す源の差別の杭であり死の棘なのだ。

 その杭=棘は心を傷つけている。
 心から自然な愛の能力を奪い、その作用を歪め、
 自己をそして他者を際限なく悪魔化して歪曲し、心に無間地獄を創る。
 恐ろしさと不安と無力感と恥辱と罪悪感の奴隷に人間を変えてしまう。

 差別、それは何より他ならぬ自分自身を差別することに始まる。
 自分自身こそが最初の被差別者なのだ。
 悪が原因で疚しいのではない。
 疚しい意識、罪と恥と恐れと脅えによって傷つけられた心こそが、
 小さく縮こめられた可哀想な心こそが悪を生み出す。

 性悪説の上に倫理や道徳を作ることは
 人間の真に善なる行動の一切を偽善に、
 すなわち悪からの脱出不可能性に置くことである。

 わたしはこの自同者を自同者=自己と改めて命名しなおしたい。
 自同者=自己は勿論、「自動車事故」に引っかけているのだが、
 この駄洒落は単なる無邪気な言葉遊びではないし
 牽強附会なこじつけではない。
 寧ろ自同者=自己の実際上の本質を開示しているものである。

 自同者は実際には自己と他者を同一者として
 そのなかに同乗させた危険な乗物であって、
 それは操縦されなければならないものであり、
 また何かしら鉄の鎧に似たもの、
 従って人間を押し潰すリスクがつねにあるようなものである。