『厳密な学としての哲学』と称してその実単なる刀狩りであり、
お手製の研ぎ過ぎて何も全く切れなくなった
絶対安全剃刀的ボロナイフを代わりに押し付けて
反乱暴動を予め鎮圧しておこうとする言論統制的戒厳令の
卑劣極まりない大学当局防衛的危機意識が強いてくるところの哲学の不便性。

そうやって人生にツケが回されるのである。
そのような倫理は、
学者という職業のための哲学をしか
志向しない職業倫理の保身でしかない。

わたしは最終的にいくらいい人であったからといって
学者以外の何者でもあろうとしなかったフッサールの
忠実な弟子でしかなかったレヴィナスの倫理学など認めない。

レヴィナスは己れが内属している形而上学(講壇哲学)を存続させるために
倫理学を利用しているだけであって、
倫理学それ自体に対する良心は寧ろ疑わしいと断じるべきである。

レヴィナスにとって倫理学は
ハイデガー存在論への批判のための道具として
素材として質料として資材として徴収されているだけである。
彼は倫理自体をその学的関心に仕える用在たらしめてしまっているのだから、
ハイデガーを批判する資格などない。

もし彼が真に倫理学者であったならば、
ドゥルーズのように闘争的に語らざる得なかった筈である。
フーコーはドゥルーズの『アンチ・オイディプス』を
フランス語で書かれた現代唯一の倫理学の書だと評したが、
レヴィナスをきっぱりと黙殺している。
それは倫理学者としてはレヴィナスはよい学者ではないということである。

もし倫理学者であるなら、
彼はハイデガーやヘーゲルを批判する暇があったら、
マックス・ウェーバーの職業倫理の形而上学と
資本主義的ブルジョワ的学問として政策科学に堕しつつある
最も横柄で有害な社会科学を批判するべきであったし、することもできたのである。

レヴィナスをわたしは評価しているが
それは倫理学者としてではなく
形而上学者としての優秀さにおいてである。
彼は誠実で良心ある形而上学者であった。

しかしこの誠実な良心はハイデガーのそれと同様、
臆病者の疚しい良心でしかない。
わたしはカントの実践理性的な道徳の形而上学を
レヴィナスに対して断固として擁護する。

倫理ではなくて道徳こそが善に関しては優越しなければならないのである。