【8】スピノザの〈ego sum cogitans〉にせよ
 ハイデガーの〈cogito sum〉にせよ、それが面白くないのは、
 デカルトの懐疑を意味する〈cogito〉の長い長い思考の持続を軽んじて、
 それを〈ego sum〉の悟りの明証性に、
 結論において取押さえてしまうところにある。

 しかしデカルトの〈cogito〉から〈sum〉への移行は
 スムースにいったものであるとはいえない。
 むしろ〈cogito〉にあっては〈sum〉は少しも自明ではなかった。
 彼がそれを納得するのに随分時間をかけて
 奇矯なまでに苦労している場面が『方法序説』に描かれている。

 〈cogito, ergo sum〉(ego cogito, ego sum, sive existo)の命題は
 デカルトにとって実は明証などではなくて
 それどころか何か訳の分からぬ啓示のようなものだったことが
 『方法序説』や『省察』を読むとよく伝わってくる。

 そしてそれをデカルトは
 必然的な(necessarie)真理として受け取っている。
 明証ではなくて、
 それはいわば暗闇の中で出会われた得体の知れない必然性、
 或いはラテン語版の『方法序説』の表現を借りるならば、
 dubitare non posse quin ego ipse interim essem
 (私自身がそのときに存在する以外には疑うことは不可能である)ような
 不可能性(non posse)の体験として、
 まさにデカルトが遂行している懐疑に
 背後から逆接してくるものだったのである。

 不可能性の逆接として全面的懐疑の主体の背中にふいに密着してくる
 この得体の知れない〈存在する〉、
 あるいは寧ろ否応無く〈存在させる〉力を
 デカルトは受容せざるを得ない。

 その体験は、『省察』を読むと、
 レヴィナスの〈il y a〉の体験の記述を彷彿とさせるし、
 或る意味では(というのはわたしの感想だが)
 ずっと酷烈な体験であったといえる。

 無論、レヴィナスにあっては、
 自分が何者かとして存在することからの締め出しとして
 立ち塞がってくる存在の闇が
 デカルトにあっては自分が何者かとして存在するしかない
 逃れ難さとして迫ってくる点で
 表面的には正反対の事態を語っているようにみえる。

 つまりレヴィナスは存在に邪魔されて存在したくても存在できないし、
 デカルトは存在したくなくても存在をやめることができない。

 だが問題は to be or not to be にあるのではない。
 デカルトになったりレヴィナスになったりするハムレットの足許を見れば、
 同じパルメニデスの球体の上を
 玉乗りよろしくうろうろと転がしているに過ぎないことはみえている。

 この球体は非常に足場が悪い。
 かといって別の場処にハムレットが飛び移っている訳ではないのだ。
 存在する/存在しないの相異点は実は些細なことなのである。
 
 デカルトにあってもレヴィナスにあっても
 〈存在する〉という出来事は何かしら不愉快な、押付けがましい、
 意のままにならぬ、寧ろ知性や思考の
 自己貫徹しようとする方向性に邪魔だてをする
 圧倒的で超越的な出来事として
 彼らに襲い掛かってきているということこそが
 重要なポイントなのだ。

 レヴィナスの想像的破壊と
 デカルトの〈私の見るものはすべて偽であり、全く何も存在しないのだ〉
 という想定と自己説得は実は全く同じである。
 それにもかかわらず存在は回帰してくる。

 ところがレヴィナスは(サルトルもそうであるように)
 この怪物的な存在を〈私の存在〉たらしめることができない。
 それに馴染めないのである。
 サルトルはいわばそれを吐いてしまう(嘔吐)が、
 レヴィナスはそれを呑みこむことができない。

 つまりサルトルもレヴィナスも
 それを自己所有しえない異質性において感受しているのである。
 一方デカルトはそれを〈私の存在〉として一応は受容する。
 まただからこそ〈cogito, ergo sum〉と彼は言うことになるのであるが、
 この受容は相当に奇妙なものである。

 『第二省察』においてデカルトは必然的真理であるところの
 〈わたしはある〉の手前と後ろで、二度動揺している。

 この動揺は懐疑とは別のものである。

 懐疑は冷徹な意志によって貫徹され、
 完全に cogito であるデカルトによって統御されている。
 cogito であるデカルトは cogito である限りにおいて動揺する筈がない。

 動揺するのは寧ろ sum の主体である。
 その人物もまたデカルトであるには違いないが、
 懐疑としての cogito であるのではない。

 寧ろ cogito の中断のなかに、cogito そのものの異貌への反転として、
 自問として、cogito を問い返しているもう一人のデカルト、
 己れの存在への不安げな関心である cogito ならざる cogito 、
 懐疑を疑う懐疑が動揺の中で芽生えている。

 これは懐疑(dubito)という意味での cogito ではない。
 寧ろこれは理性(ratio)の声、
 己れの存在に根付いている理性の声である。

 それはソクラテスにおけるダイモニオンの中性的な声に似ている。
 そして〈cogito, ergo sum〉という命題を
  cogito に対して差し出すのはこの理性の中性的で批判的な声である。

【9】cogito, ergo sumは洞察でありまた逆説である。

 洞察であるというのは、それが sum (我在り)の根底を突抜けて
 不可視の向う側になお
 何か他なるものがあることを叡智しているからである。

 逆説であるというのは、
 それが「我疑うが故に我信ず(credo, quia dubito)」という
 驚くべき回心の逆転劇をその裏面に響きとしてもつ
 逆説的な信仰告白となっているからである。

 それは絶対的逆説である。

 徹底的な懐疑がその窮極に至って、
 絶対的確信というその正反対物に錬金術的転換を遂げる。
 この転換は反転であり、転位であり、スピンであり、背理である。
 背理であり逆説でしかありえないようなかたちでこの回心は起こっている。

 パウロの回心である conversion とこれを比べるべきであろうか。
 それともプロティノスの、或いは寧ろオルフェウスの背視を意味するような
 ギリシャ的かつ神秘主義的な epistrophe として
 この思考の転回をみるべきであろうか。

 デカルトの所謂 cogito は、ergo sum と呟くときに自己存在を越え、
 その背後にひろがる闇へと振返っている。
 この振返りは不可能だが不可避にして必然的である。

 デカルトの cogito は、sum と呟くときに、
 自己存在の自明さに立ち止まり、
 そこに停留して停止し、
 そのまま眠りに堕ちてしまうような不徹底なものではなかった。

 そのような自己の局所化を通して己れに到来するような定位によって
 実は人は身体の質料性に捕縛されつつ己れへと陥る。

 それ自体としての存在 esse
 つまり未だ主語なき非人称の闇のざわめきとしてある
 純粋な動詞的出来事としての esse が、
 〈わたしである〉と判断されるとき、
 それは既にして〈わたしである〉ところの存在、
 つまり ego の持物としてその支配・所有を受ける。esse は
 単なる ego sum となって、その向こうはもはや見渡せなくなる。

 ego はいわば裸の〈存在する〉という事実を塞ぐ壁なのである。

 だからこそこの不徹底さ、存在忘却には
 却って自己同一的な主体の誕生という積極的な意義がある。
 
 眠りに堕ちることなしに、
 わたしはわたしであるところの存在の許に留まっていることはできない。

 このようにして、存在は基体化し主体は実体化することになる。
 かくして近代的な個人=個体(l'individu)は、
 自己意識によって自己同一性へと存在を
 位相転換=基体化(hypostase)して回収し
 その自己所有・私有財産とする。

 デカルトを読み抜いた上でレヴィナスは
  cogito から ego sum を越えて、
 esse へと辿るデカルト的思索の夜を方向転換させ、
 それを非人称の〈ある〉である il y a つまり esse から、
 cogito(自己意識)が己れの存在 ego sum を引張り出す
 hypostase の夜として捉え、それを独特な瞬間論と組合わせて、
 大体上に概略したような主体の局所化と
 存在への自己同一的定位の運動論を展開している。

 しかしレヴィナスは、このようにして誕生した自己同一的主体を
 質料的孤独に閉塞し、専ら自己にしか関わらない自同者として批判する。

 しかし批判のポイントは、
 このようにして生じた近代的自己意識の存在への注視が不徹底であり、
 自己存在というものが、自己を実体化して、存在としての存在の意味から、
 己れを切離した存在忘却(存在の自明視)である、というような
 ハイデガーのデカルト批判をむしろ批判することにある。

 それどころかレヴィナスはデカルトを擁護する。
 彼が批判するのは近代哲学がデカルトの名に於いて創り出してしまった
 自同者の自己同一性であり自己存在である。
 その中に実はデカルトを批判するハイデガーが含まれてしまう。

 ハイデガーもレヴィナスも
 自己意識の自己同一性を自分へと閉じてしまったもの、
 従ってまた何か重要なことを
 忘却してしまっているものと看做して批判するが、
 ハイデガーが挙げる罪状は存在の忘却、
 レヴィナスが挙げる罪状は他者(神)の忘却である。

 しかし、おそらくデカルトだけが、真の神の手に包まれて、
 神にまさしく創造されたものとして、
 全く異なる意味での〈私は在る〉を実在しえたのである。