【6】しかし話を戻そう。
 sum は cogito という世界内から世界外に脱出・孵化しようという
 懐疑の悩ましいもがきを通してしかあらわになってこない確実性である。

 sum は神と cogito との出会いをもたらす聖地である。
 それは契約の石板のようなものだ。

 それは cogito によってしかあらわにならないからには、
 cogito の動きが封じられてしまえば逆にみえなくなってしまう。

 ハイデガーが間違っているのは、
 sumという〈存在〉は〈確実性〉を求める懐疑が
 最後に見いだした到達点である限りにおいて
 〈明証〉と呼ばれているに過ぎないのに、
 それが最後の明証ではなく、
 最初から与えられた確実な明証(自明性)として
 cogito を条件付けてしまっていると考える倒錯にある。

 たしかに〈我在り〉はデカルトによって確実な明証として輝かされた。
 しかしハイデガーはその結果だけを受取り
 自分でそれを自明視しておきながら、
 デカルトが存在を自明(明証)視している
 といってデカルトを批判している。

 だがデカルトは存在を受動的に自明視していたのではなくて、
 それをすべてが不明になった中から能動的に自明化したのである。

 sum に特権的で根源的な位置を与えたのは cogito である。
 デカルトは確実性を求めて存在を発見したのであり、
 また存在を第一原理にしたのはデカルトである。
 cogito は sum に先行して sum を己れの作品(ergon)として残した。
 それを考えた作者を抜きにして sum は語れない。

 しかしハイデガーはこの sum を
 デカルト(デカルトと神の単独的関係)を抜きにして
 一般的なものとしてみてしまっている。

 すると cogito はパルメニデスの思惟(存在が思惟する)と
 同じものになってしまう。
 するとデカルトはまるで父につかまって殺されるように消されてしまう。
 残る cogito も sum もそれでは死体と同じだ。
 寧ろデカルトの cogito は常に懐疑を避け免れようとする
 いやらしいパルメニデスの存在=思惟の球体から
 脱出しようとする運動においてみなければならない。

 そして彼がたどり着いた sum は
 〈存在が存在する〉(パルメニデス)ではなくて、
 〈私が存在する〉だったのである。

 逆にパルメニデスの〈存在が存在する〉は
 この〈私が存在する〉に逆接する
 全く他なるもの(神)にゆだねられている。
 それはパルメニデスの思惟=存在を肯定するようであってそうではない。
 〈存在が存在する〉と〈私が存在する〉は
 別のこととして切り離されている。
 〈存在が存在する〉ことをデカルトは神にだけ帰している。
 私においては〈存在が存在する〉ことは起こらない。
 これはパルメニデス的な思惟の禁止である。

 だから問題は寧ろハイデガーのデカルト解釈にある。

 ハイデガーはデカルトの〈cogito, ergo sum〉を
 〈cogito sum〉という風に〈ergo〉を消して了解してしまう。
 これは〈cogito=sum〉と言ってしまうのと何ら変わりはない。
 ハイデガーはパルメニデスの自同者のなかに
 デカルトの懐疑を幽閉めてしまっている。
 〈我思う〉と〈我在り〉が同一人物のことであると
 ハイデガーは考えてしまっている。

 それは或る意味においては正しい。
 しかし、別の位相から見るならそれは恐らく誤解である。

 思うに、cogito から sum への移行を司る ergo (故に)こそ謎である。

 無論、cogito の命題には異形があって、
 よく知られたこのラテン語形の仏語訳の他に、
 「わたしは思う、わたしは在る、或いは実存する」
 (ego cogito, ego sum, sive existo)という
 意外に見落としやすいものも同じ意味のものとして
 『方法序説』で使われている。

 そこでは ergo は落とされている。

 そのことは重々承知の上でわたしはこの小さく目立たない、
 それどころか、デカルトその人にあっても消えうせてしまいがちな
 ergo という不可解な副詞(接続詞ではない)に
 こだわってみたいのである。

 ergo は通常、
 三段論法の断案の冒頭を飾るスコラ的語法の決まり文句である。
 三段論法は大前提・小前提・断案へと展開する
 三肢構造をもつ形式論理である。

 無論、デカルトの cogito, ergo sum は三段論法ではない。
 ところが ergo に惑わされて、
 これを大前提の隠された三段論法であるとして批判した者がいた。
 ガッサンディである。
 またそれだけではなくて
 あのカントも同様の誤解にもとづく批判をしている。

 ガッサンディはこの隠された大前提は
 「全て思考する者は在る」という命題であろうと推定した。

 すると cogito, ergo sum は
 小前提 cogito と断案 ergo sum の二命題に分解されることになる。
 敢えてより三段論法風に書き直せば
 atqui ego cogito (しかるに私は思考する)が小前提の命題であり、
 ergo ego sum(故に私は存在する)ということになるであろう。
 
 ergo は躓きの石であった。
 ガッサンディはこれに躓き、デカルトその人から批判されている。
 ハイデガーはこれを消してしまうことで
  cogito と sum を=で結んでしまう。
 すると cogito は思えば直ちに sum と自己同一化して
 パルメニデスの一者を回帰させるものに成り下がる。
 それではガッサンディと実は同じなのである。

 「全て思考する者は在る」という大前提は普通の意味における明証である。
 思考する者が同時に存在する者であるという同時性において
 〈cogito, ergo sum〉を読んでしまうと、
 cogito と sum を隔てて別々の時点に置いている ergo が見えなくなる。

 cogito と sum の間には実は時の断崖が、段差が開けている。
 cogito≠sum なのである。
 ergo とはデカルトの飛躍の徴である。
 ergo においてデカルトは
 懐疑(cogito)から明証(sum)に飛び越えている。
 するとたちまち cogito=sum となって、
 デカルト当人にとってもそれは明証と簡単に言われてしまう。

 だがそれは当たり前のことではない。
 実は明証なのではなくて必然性であり、
 通常言われるような直接推理ではなくて
 背理法つまり間接証明だったのである。

【7】ハイデガーと同様の誤解は、
 恐らくデカルト哲学の優れた解説者であったスピノザにもある。
 スピノザはデカルトの〈cogito, ergo sum〉を
 「全て思考する者は在る」という大前提の隠された三段論法だ
 とする者たちを批判して云う。

 もし三段論法だとすれば、「故に私は存在する」という結論よりも、その前提の方が一層明瞭で一層熟知されたものでなければならぬ。そうすると「私は存在する」ということはすべての認識の第一基礎ではなくなる。そればかりでなく、それは確実な結論でもなくなる。というのは、この場合その命題の真理性は、著者(デカルト)が以前すでに疑った普遍的概念の前提の上に成り立つということになるからである。だから、「私は思惟する、故に私は存在する」(cogito, ergo sum)という命題は、「私は思惟しつつ存在する」(ego sum cogitans)という命題と意義を同じくする単一命題なのである。
    (『デカルトの哲学原理』邦訳書 p26 畠中尚志訳 岩波文庫1959)

 スピノザもまた〈ergo〉を消してしまい、
 同一の我(ego)の元に cogito と sum を帰着させてしまっている。

 例えば柄谷行人がそうであるように
 このスピノザの解釈を良しとする人が結構いるが、
 わたしはこれを寧ろデカルトの真意を損ねる解釈であるとして拒絶したい。

 だが実をいえば
 何がデカルトの真意であったかということはわたしにはどうでもよい。
 問題はスピノザの解釈はハイデガーのそれと同様、
 デカルトを面白くも何ともない
 退屈な人間にしてしまうので不愉快なのである。

 実像がどうであるかは実はわたしにはどうでもよい。
 デカルトの真意がどうであったかにかかわりなく
 既に歴史的にデカルト主義と称されるものが
 決定的に存在してしまっている事実は消せないのだ。

 デカルトの解釈や評価はその影響の歴史的事実的刻印によって
 それが間違っているにせよ正しいにせよ
 確定してしまっていることは否めない。
 たとえわたしが今になって真のデカルトは
 実は全く違う人間であったということを立証しえたとしても、
 それで歴史が変わるという訳ではない。
 先人が莫迦であったことを立証しえたところで
 わたしが賢者として彼らから尊敬をかちえる訳でもない。
 またそんなことはどうでもいいし、無駄な議論であるに過ぎない。

 過去の偉人たちに対していばり散らすような
 それこそヘーゲルのやったような
 虚しい上に有難迷惑なことをわたしはやりたいとは思わない。
 わたしはいわゆる客観的な世界をいじくりまわしたいとは
 思っていないのである。

 寧ろここではデカルトを
 全く違ったことを言わんとしていた人間であると仮定し、
 虚構してみることで、
 その虚構のデカルトからわたしが欲しているものを
 手に入れられればそれでいいのである。
 つまりここにおいてデカルトとは、
 寧ろそれを読むわたしであり、
 或いはわたしが現代のために書こうとする
 小説的哲学の作中人物なのである。
 
 思うに、哲学や批評は何かしら苦々しい正しさに凝固まっているよりは
 寧ろまず美しく魅力的であるべきである。
 それは小説や詩と同じくどこか創作の問題なのだ。

 わたしはここでデカルトを創作したい。
 cogito, ergo sum という閃きの出来事を
 寧ろ全く違った風に考えてみることはできないだろうか。
 cogito……という事柄そのものへ
 既に語られた仕方とは違った形で肉薄してゆくことはできないだろうか。

 そのためにわたしは別のデカルトを設定し直す必要があるのだ。
 そうである。デカルト自身も言っているように
 それは一つの寓話または物語としてあるのでなければならない。