【5】ハイデガーの〈sum, ergo cogito〉は
 〈cogito, ergo sum〉を不確実にしてしまう。

 つまり〈わたしは在る〉を先立たせ、
 その文鎮によってゆらゆらと揺れる和紙(懐疑する cogito)を
 同じ〈わたし〉(自己同一性の自己了解)であるということを
 根拠にして押さえ付けてしまう。

 すると、その鎮静化
 (あるいは〈わたし〉という同一名による抑圧)によって
 懐疑能力としての cogito は動けなくなってしまう。

 ハイデガーはデカルトを存在を自明視しているとか
 或いは存在論的差異を閑却しているとかいって批判するだろう。
 しかしそのことによって、ハイデガーは自己同一性を自明視し
 人格論的差異(自己人格の分裂)を閑却してしまっている。

 この二つの差異は実は別の水準にある。
 存在の危機と同一性の危機は安易に混同されがちだが
 それは全く別の次元の問題なのだ。

 ハイデガーは存在の意味が重要な主題なのだと思い込んでいる。
 しかしデカルトの懐疑はむしろそのようなものとは無縁である。

 彼を懐疑に追い込んだものは、
 その伝記を調べてみれば示唆されてくるように、その生い立ちにある。

 デカルトは幼いときに母をなくしている。
 そして彼の父親は息子の人格を無視して平気でいるような人間である。
 デカルトは父に根本的にその人格(他者性)を
 侮辱され踏みにじられ剥奪された人間である。

 彼の『方法序説』が出版されたとき、
 このひどい父親は息子を下らぬ本を書くような
 恥ずかしい出来損ないだと罵ったという。
 デカルトが病弱であったことの責任はこの愛のない父親、
 己れを大人物だと信じて疑わず、小さな子供を見下し、
 自分とそっくりの人間に仕立てあげるために
 出世の道具としての無味乾燥な学問を学ばせるのが
 親の愛だと信じて疑わないこの暴君に全面的にある。

 デカルトの学問への懐疑は父親への懐疑である。

 彼が欲したのは存在ではなくて確実性であった。
 このことはウィトゲンシュタインのケースと実は同じである。
 ウィトゲンシュタインも数学と確実性に固執した人間である。
 そしてその兄弟は次々に若死にしているが、
 それがその俗物的に出世した愛のない強圧的な父親の
 拝金主義・出世主義・実利主義のせいであったことは見え透いている。

 ウィトゲンシュタインはラッセルに父親代理を求めた。
 ラッセルにあなたはわたしをまるきりのバカと思うかと尋ねた
 ウィトゲンシュタインの逸話には胸の痛むものがある。
 彼が父親にどんなことを言われ続けて育ったかをそれは物語っている。

 もしラッセルが認めてくれれば哲学者になろう、
 さもなければ飛行機乗りになると思い詰めていたとき、
 ウィトゲンシュタインは実は自殺を覚悟している。
 それは父親に殺されてしまうということである。

 幼いころから人格を無視され、
 その理性と意志の行使の権利を、
 他人の恣意的な判断によって
 反復的に妨害され剥奪されて育った人間にとって、
 死活問題は存在ではない。確実性である。
 何故ならそのような横暴で欺瞞的な親は
 子供を騙して己れの判断の奴隷にするときに、
 必ず子供に対して自分の判断は
 絶対に確実であると押付けがましく迫るからである。
 しかし子供にとって絶対に確実であるのは己れの精神の破滅である。

 このような子供は存在を脅かされているのではなくて、
 むしろ存在を盾に取られ、また自己存在を人質に取られて、
 その精神を人格を意志を脅かされている。

 ハイデガーのように、
 或る意味では良い素朴で人間的な父親に恵まれて育った人間には、
 デカルトやウィトゲンシュタインの
 虚偽のない真の確実性への死に物狂いの飢え、
 哲学者にでもならなければ生きて行くことができない程の
 切迫感が理解できない。

 デカルトやウィトゲンシュタインはプライドを踏みにじられ、
 世界を不確実にされた人間なのである。
 このような人間は深刻な自己分裂と人格障害に一生孤独に苦悩し続ける。
 懐疑しなければ父親に捕まって殺されてしまう。

 他者との関係が病んでいる人間は自己を病むが、
 それは存在が病んでいるからではない。
 他者が存在を確実性を口実にして剥奪し、
 別の存在を押し付けてそれを生きろ(おまえは死ね)と
 にこやかに命令してくるからである。

 デカルトはだから神を必要とする。

 神とは、不確実な世界を彼に押付け
 精神の破滅を親の愛を盾にとって要求してくる
 悪魔のような父親から彼を救い出してくれるもののことである。

 父の子ではなく、神の子として新たに生まれ出なければ
 デカルトはきっと死んでしまったことだろう。

 そのような痛ましい sum の意味をハイデガーは少しも読めてはいない。

 確実性を求めてデカルトは懐疑し、
 思う我が、世界もなく身体もなく天にも地にも何もなくとも
 神に抱かれて存在するのだというとき、
 その存在はわたしたちが普通にいう存在や
 ハイデガーのいう存在とは全く次元の違うものをいわんとしている。

 彼は父親の手が決して届かないところに逃げ延びたのである。
 そこでしか真の確実性は与えられ得ない。
 それがたまたま sum であっただけである。

 恐らくそれは他のものでもありえただろう。
 神という父(他者)とは違う他者(他者の他者)の愛が、
 父の魔手から彼を永遠に確実に守ってくれるものでありさえすえば。

 デカルトは人を愛する人であった。
 その父は息子すら愛せない人非人であったというのに。

 デカルトが人を愛せたのは、彼が疑いに疑い抜いて
 父の作り出した偽の世界・偽の人生・偽の確実性の向こう側に突破し、
 真の愛の確実性の根拠である神に出会ったからである。
 神がデカルトを愛し、
 デカルトもまた人を愛してよいのだと言ってくれたからである。

 デカルトの sum は冷たい sum ではない。
 それは神への通路であり、愛の根拠である。