【1】cogito, ergo sum -cogito まではその名前は〈デカルト〉である。
 しかし、sum からは寧ろその名前は〈神〉である。
 そもそも sum とは創造神ヤハウェのラテン名である。
 「我は在りて在るところの者なり」(ego sum, qui sum)。
 我思う故に我在り、しかし飜ってこの〈我在り〉において
 寧ろその名を告げる神こそが必然的に在る。
 この〈我在り〉は寧ろ〈神在り〉である。

【2】デカルトの格言〈cogito, ergo sum〉は、
 神に届き達して漸くその完結をみる精神的事件の要約である。
 その意味においてそれは単なる直観ではないし、
 今日的意味における明証(evidence)でもない。
 
 cogito, ergo sum は、自同律〈わたしはわたしである〉とは
 何かしら異なった次元での明証(evidence)であり、
 思考の第一原理(principium)であるものの表明である。

 パルメニデス以来の自明視された自同律の第一原理性・不可疑性の内から
 むしろデカルトの懐疑は逸脱している。
 パルメニデス式に、自同律的に〈cogito, ergo sum〉を解釈してしまうと
 〈cogito=sum〉となり、
 それを根拠づけるような〈神〉の創造の次元は出てこず、
 むしろ同一性である〈=〉によって〈神〉は消されてしまう。

 しかし、むしろデカルトが言いたいのは〈cogito≠sum〉であるような
 根源的な出来事である。
 同一性の否定〈≠〉によって〈神〉の創造の次元が劈開してくる。

【3】第一にそれは自同律が掩蔽し曖昧にしてしまう
 〈ある〉における還元不可能な意味の差異に言及することである。
 つまり同じ動詞 esse でも、
 補語(賓辞/述語)をとる〈繋辞〉(である)の場合と
 〈存在〉(ある)の場合では意味の位相が違う。

 他動詞的な繋辞は主辞と同一のものとして
 主辞を限定=規定する賓辞に言及し、
 賓辞を問題にすることによって
 〈主辞-賓辞〉の分節構造をもつ命題を形成する。

 命題は論理学の形式的考察対象となるところのもので、
 その真偽が問い詰められるところのものである。

 しかし、つきつめて見てみればすぐ分かるように、
 論理学が問うのは常に賓辞の真理性であり、
 類と種差の論理的階層構造に基づいて、
 賓辞が規定するところのものが最終的に主辞に妥当する
 (部分的に同一性を持つ、
  つまり類的な〈同一性〉と
  それに根付く種的な〈差異〉である〈相異性〉によって
  規定=定義可能な共通項によって主辞と賓辞が通分=共約可能である)
 かどうかが問い詰められるのであるに過ぎない。

 つまり賓辞が主辞に基づけられた存在(実在)を持つかどうかが
 問題となっているに過ぎない。

 賓辞の真偽(あるかあらぬか)は
 主辞の問われることのない真偽(あるかあらぬか)に
 盲目的に依存してしまっていることになる。

 ということは、論理学は
 最終的で窮極的な真理である主辞の存在については何も明かし得ない以上、
 真に確実な妥当性を原理的に持ち得ない
 不確実な学問であるということになる。

 つまり論理学に先立ちそれを基礎づけるものとしての
 主辞の存在の真理を問う学である存在論が要請されるであろう。

 このことの経緯は実に見易い。
 例えばハイデガーの存在論は
 論理学が問題とすることのできないこの繋辞ではないところの存在の真理、
 主体の定立(position/thesis)そのものの真理、
 〈われ在り〉(ego sum)の真理そのものを問題にしようとしている。

【4】ハイデガーの存在への問いが
 実存としての〈われ在り〉の意味への問いとして
 開始したことは知られている。

 茅野良男は
 『ハイデガーにおける世界・時間・真理』(1981 朝日出版社)のなかで
 『存在と時間』を著す直前のハイデガーの思索が
 〈われ在り〉の存在意味への問いであったことを述べている。

 第一次世界大戦復員後から
 ハイデガーの独自な思想が展開し始めていることについては
 多くの論者が指摘する通りである。
 それ以前のハイデガーは、基本的に新カント派及びフッサールの影の下で
 論理学的な研究を行っている。
 茅野が指摘するように学位論文でも教授資格論文でも
 ハイデガーは〈繋辞〉としての存在の意味、
 つまり妥当性というものについてしか問うてはいない。

 それに収まり切らない〈われ在り〉の意味、
 実存・現存在という意味での存在の意味について
 問い始めるハイデガーの変貌は
 第一次世界大戦の歴史的な体験と切っても切れないものである。

 例えばオットー・ペゲラーは
 一九一九~二〇年頃のハイデガーの変貌について
 以前にはなかった「事実的な生」(faktisches Leben)
 「事実性」(Tats chlichkeit)という問題設定が現れ、
 それ以前の形而上学的な存在
 (判断・範疇・意義などの問題設定において問われる〈繋辞〉
  ・妥当性としての存在)についての問いが
 鳴りをひそめていったと述べている。
 (1963『マルチン・ハイデガーの思惟の道』/
  邦訳題名『ハイデッガーの根本問題』
  大橋良介・溝口宏平訳 p25 1980 晃洋書房)

 ハイデガーの精神危機と
 デカルトをいわゆる方法的懐疑に駆立てた精神危機は比べられてよい。
 両者とも〈ego sum〉の問題へと逢着する。
 しかし、両者の定位の力点は微妙に違う。

 デカルトの場合、我思う〈ego cogito〉が事態としてまず先である
 とひとまず一般的な見解としてそう言える。

 ハイデガーにとって、cogitoは余り重視されていない。
 むしろ〈sum, ergo cogito〉という風に順序が転倒している。
 ergo cogito として見いだされるのは
 彼のいわゆる現存在(Dasein)である。

 ではハイデガーにとって〈ego sum〉の存在意味とは要するに何なのか。
 最終的にはそれは
 ハイデガー版の cogito である Dasein の自己性に帰着してしまうだろう。
 それは要するに存在の声に聴従するという
 人間の役割(存在からの付託/命運)の問題となる。

 人間は存在から自己を自己固有の存在意味として
 受容し所有すべきものとして召喚される。
 つまり存在は存在自身を人間の自己性に有限的に譲渡するものとなる。
 存在が譲渡されるということの内に
 存在の譲渡不可能性つまり必然性(necessitas)は否定されている。

 それは譲渡可能であるからには根本的には偶然的である。
 ということは、パルメニデスの自同律や自己同一性は
 他のようでもありえたしありえるであろうものとして
 それ自体は根本的に不安定な偶然的なもの、
 そして歴史的なものに過ぎないということを、
 ハイデガー版の cogito は了解するということになる。

 これは、パルメニデスへの批判であると同時に、
 それ以上に〈cogito, ergo sum〉が告げようとする
 〈ergo sum〉の確実性への、
 つまりデカルトへの批判になってしまっている。