mode model modality
modernity moderation
modesty moification
modulation module modulus
……ラテン語〈modus 尺度/定規〉に語源する派生語群(または派生概念)。
あれかこれかという問いを擾乱させるもの。

modus 、これに対するに恐らく actus
すなわち、リアリティを補強する保守的なモダニティを打ち破るものとしての
シュルレアリステイックで革命的なアクチュアリティを構想するべきである。

modus としての法は寧ろ最悪の絶望的な法、
人間を節度(modesty)または他人の節穴の死せる詰物に変え、
最悪のパノプティコンに束縛する、
nomos よりも、また temis よりも、
律法や戒律、禁忌や禁止、法律や因習、
ロゴスやダルマよりも邪悪な
一番反動的でたちの悪い洗脳の法ではないのかと問い直すこと。

そして、 actus を無際限な自己適合のラビリントスから
抜け出せなくする判断の悪循環ではないのかと
寧ろナイーブに問い直すことが必要なのだ。

modus という中性的で一見肯定的な誘惑の法の
美学的であるが故に、また友好的であるが故に、寛容そうにみえるが故に、
逆にあらゆる自由の余地を奪い去る圧政であるというその本質を、
actus を全面的に塞ぐというその根本的妨害性を
曝露し破壊し尽くさねばならない。

物理的実体をもたぬが故に幻想というものは
検証することも批判することもできないし
破壊することも難しい脱出困難なものである。

その支配は軽く、そしてそれは実際、ほとんどないかのように見える。
だがそれが不可視であるが故に、そして殆ど感知されないが故に、
modus は、esse よりもたちの悪い呪縛者であり、
ベルリンの壁よりもぞっとする〈自由〉という名の
(そしてもちろん名ばかりの〈自由〉の)幻想の壁、
死の壁、沈黙の壁となっている。

これは自由の敵である。

苦悩を強いる壁ではなく、寧ろ苦悩を禁止する壁である modus は、
存在よりも悪い仕方で人間を追い詰めて殺す。

modus ――〈節度〉というこの美学は、
自己を喪失させ他者を喪失させ、
窒息的平和のファシズムに人間を呪縛する死の〈節穴〉であり、
自由という名の蟻地獄である。

それは logos よりもより歪んでいるだけ嫌らしい仕方で人間を辱める。

modus ――分を守れ、己れの分を弁えよという
この根拠なく空中浮遊する優しげな笑みをたたえた妖怪の命令は、
人間を必要以上に縮限して損なってしまう。
その当然の権利を主張できなくさせてしまう。
真綿で首を締付けるようなこの抑圧様式は文学的なものである。

文学的なものこそ最悪の支配者であり最悪の法となりうるということ。
サルトルはそれに気づいていた(例えばステレオタイプの危険)が、
殆ど彼を最後にして、
文学に対する文学による価値闘争の戦いは見失われてしまった。

この国では特に戦後、状況は悪化の一途を辿っている。
批評家が文学を真に批評しないのだ。
単にそれを解説するのみで変えようともしない。

偽りの寛容さを薦め、すべてを認めると称して
何も認めようとしない二枚舌の相対主義が
modus を固定化するためにいつも引用されてきたのだ。

最初は小林秀雄(様々なる意匠)、
それに飽きるとロラン・バルト(モードの体系)という訳だ。
小林流にせよバルト流にせよ、
それを律しているのはシニシズムでしかない。
そうやって批評家たちは文学賞と共に
文学の堕落と作家の死(生殺し)に大いに貢献して
今日のみにくい文化を作ったのである。

小林は〈天才〉という言葉とまやかしの称賛によって
作家たちを殺すサロン的方法論を戦前のフランスから輸入した。
そうやって貧乏臭いマルクス主義を黙殺的に葬ったのである。

戦後はテル=ケル的方法論が特にロラン・バルトの名前への
相変わらずおフランス的態度において輸入され、
ダサい実存主義の一掃に貢献したのである。

作家の死・文学の死とテクスト至上主義は、
あの真面目で文学を愛しているブランショとは殆ど関わりがない。
甘ったるいが愛のない希薄で軽薄なバルトの方が
我が国の反動的似非文人にとっては模倣しやすかったし
都合良くできていただけの話だ。

しかもそれは水薄めされたバルトであって、
バルトほどの聡明さも繊細さもないようなものであった。
それはただの冷たい構造主義だったし
おもちゃ遊び以下の幼児的記号論で、
批評家は作家の書いたものを好きなように切り刻んで
己れのたわごとの材料に使い、
作家の実際に書いたこととは似ても似つかない
堕落した文章をたれ流すことで、文学への失望を生産した。

それはアメリカ的なもので、
読者が作家の意図を無視して勝手に作品を読み曲げることから
批評家が作家を守らないどころか
面白がってその無理解曲解に加担するという悪習が、
伝達の意志が真剣であればある程作家を絶望させ、
例えばシルヴィア・プラスのような高貴な人を自殺させ、
また、伝達の意志がひねくれている上に
大して表現すべき内容もないような
単に人を煙に撒いて謎を解かせることに夢中にさせる
子供騙しだけには長けている推理作家のような連中だけを増殖させて、
あの不幸で偉大なポーが生み出した
麗しい探偵小説や怪奇小説という高貴なジャンルを
どんどん安っぽく薄汚いものに退廃させるのに貢献したのと同じ原理である。

いうまでもなく我が国でも同様の症状が猖獗を窮め、
小器用で彼を本当はばかにしている批評家や出版社にいじけた媚を売り、
虚名と見え透いた嘘と原稿料をせしめることだけがうまい
主体性のないひどい作家だけがよく売れる。

作家は読者や自分のために書くのではなく、
批評家と出版社と編集者と文学賞のために書かねばならなくなり、
批評家たちは文学を自分たちだけが
独占的に読むべき〈知〉の材料として階級的独占物にし、
若い人間にはそれを読むことを侮蔑的なまたは自嘲的な調子で禁止し、
それでいて自分の駄文、すなわち、
もはや如何なる esse の残滓もない下らぬ話題のためのエッセイだけは
マンガと馬鹿げた雑誌と一緒に読むように押し売りする。

批評家の見解や書評がいつも先にあって
読者はその読み方ですら管理されているという訳だ。

この modus にあっては中間搾取者が、媒介者が、
もっとも厭味で才能のない人間が、万人の弱味につけこみ、
その文化的品性を堕落させることで利益を得ているのである。

そして今日無名の読書人たちは
誰も彼もが脅えた弱々しい笑みを蒼白く浮かべ、
引きつった顔をしているというわけだ。

それが要するに今日のモードである。