だがここでもういちどハイデガーに戻ろう。
 現在(定位)に先立つ前置詞的滞留 
 (前定位/前提 supposition というより propositio)
 というエポケーをハイデガーは現在の背後に認めている。
 この滞留の場処を統轄するのが実は別人である。

 滞留するとは留保すること手許に置くことである。
 ハイデガーの本源的時間=存在は、
 それ自身の有限化を通してしか
 現前態(Anwesenheit)としての現在とはならない。
 この場合現前態はそれを
 アリストテレスの現勢態(energeia/actus/actualité)
 といいかえてもよいものである。

 現勢態への定位をレヴィナスはそれが与えられたものとはみなさないが
 それでも現在(プレゼント)としてみている。
 現在は現勢態である。
 他方、現在の背後の滞留(存在の自己抑制としての停留期=エポケー)は
 可能態=潜勢態であると考えられてよいだろうか。

 必ずしもそうであるとはいえない。

 可能態と現実態、つまり潜勢態と現勢態の間に中間段階が考えられる。
 ハビトゥス(習性 habitus)という段階を考えることができる。

 フッサールの『デカルト的省察』には、
 超越論的自我の自己構成の問題を論じる中に、
 〈習性の基体としての自我〉についての叙述がある。
 レヴィナスの位相転換=基体化論は当然ながらこれを踏まえている。

 フッサールはそこで
 〈体験の同一的な極としての自我〉と
 〈習性の基体としての自我〉と
 〈豊かな具体性において捉えられたモナドとしての自我〉を区別している。

 レヴィナスの〈実存者〉は
 全体としてモナド=瞬間の原子として考えられている。
 それは内的分節を有する。自我と自己である。

 このうち自我は意識の極であるから
 〈体験の同一的な極としての自我〉に対応する。
 フッサールは言う。

 自我自身は、たえざる明証の中で、自己自身に対して存在しているものであり、したがって自我は、自己を存在者として自己自身のうちで絶えず構成しているものである。(『デカルト的省察』§31)

 この自我は自己構成しながら、意識作用の極としてそれを同一的なものとして生き抜く自我と考えられている。それは空虚な同一性の極である。他方レヴィナスのいう自己は〈習性の基体としての自我〉に対応する。これは〈持続的個性の同一的基体〉であり〈固定的で持続的な人格的性格〉に関係づけられている(同§32)。

 そこでレヴィナスが位相転換というのは
 自己構成の主体であるべき自我(同一性の極)が、
 如何にして〈習性の基体として持続する自己〉を
 同一化するかという問題である。

 自我は〈習性の基体として持続する自己〉を
 他の対象(基体)のように構成しているが、
 とりわけその基体をおのれと同一のものとして〈自己〉にするには
 その基体の内に入り、それを担いとるという仕方で、
 所有しなければ人格化することはできない。

 それは自我(空虚な自己同一性の極)が
 習性を通していくらか形成されているモノとしての
 具体的性格をもった未自己つまり人格の素材(質料)を
 自己同一化によって
 現実態の人格たらしめようとすることであるといえる。

 しかし問題は、第一に、
 この基体となる自己がフッサールにおいて〈習性〉と呼ばれており
 〈可能態〉と呼ばれていないことにある。
 また、第二に、フッサールは意識から歩みだし、
 存在者(自己)を存在するものとして構成する主体は
 〈自我〉(意識)だといっているのに対し、
 ハイデガーの方は存在から歩みだし、
 存在者(自己)を有限的に存在させる贈与の主体は
 〈存在〉だと主張している点にある。

 つまり、問題の存在者(自己)は、
 それぞれ己れが造り主/所有者だと主張してやまない
 フッサール的自我=意識と
 ハイデガー的存在の間に宙吊りになった与件であるということになる。

 自我は現勢態である。
 存在は可能態(潜勢態)である。
 その中間にある自己は習性の基体として
 前置詞的場所に滞留させられている。
 それは別人の管理下に置かれている。

 レヴィナスの思考には
 意識(フッサール)と存在(ハイデガー)の
 対立的二元論とでもいうべきものがある。
 この二元論を調停するために
 レヴィナスは両者の間を引き離すことを企てる。
 かくして意識と存在の相互に他方を呑み合おうとする闘争を
 調停するために〈瞬間〉の観念が導入される。

 これはうまい手である。

 間にワンクッションを置くのである。
 その場合、非常に都合のよいものは
 フッサールの〈習性の基体として持続する自我〉という観念である。
 レヴィナスはこれを〈習性の基体としての自己〉という風に書き換える。

 これはどういうことかというと、
 自我という核心(魂)を
 〈習性の基体として持続する自我〉という複合体から抜き取ることである。

 つまり彼は〈習性の基体として持続する自我〉を分析して、
 それを現勢態たらしめる魂の部分(実体)としての〈自我〉と、
 それがなくては〈自己〉たりえない
 〈習性の基体〉であるに過ぎない〈存在者〉という
 ゴーレムに実は区別している。

 ハイデガーの存在は、魂のない存在者までしか創造することはできない。
 それはまだ自我によって自己に現勢化されてはいない
 〈それ〉であるに過ぎない。
 しかもこの存在者は現存在といわれているが
 つまりは存在の現れる空虚な場でしかない。
 それが存在から送られる命運は死すべき者という身分でしかない。
 それが歩み入るのは現実忘却であるところの
 可能性としての存在(存在可能)つまり潜勢態である。

 恐らく、

 実存者(現勢態)~存在者≒実存(習態)~存在(潜勢態)

 という関係式が想定されている。

 習態という概念は習性に対応している。
 実にそこにレヴィナスの戦略の要諦を看取することができる。

 ハイデガーはその基礎的存在論を情態性
 つまりパトスの問題として展開している。
 レヴィナス哲学の主題は周知のようにこのハイデガーのパトスの存在論を
 倫理学(エチカ)の立場を選択することで乗り越えようとするものである。

 それは簡単にいえば存在=パトスに
 倫理=エートスを対抗させる戦術である。
 このエートスという語は倫理の他に習性・性格を意味する。

 レヴィナスがフッサールの〈習性の基体として持続する自我〉の概念に
 看取したものは、
 それを〈倫理の主体として持続する自我〉に高め、人格改造することで
 〈情態性の主体として瞬視する自我〉という
 ハイデガー的・運命的・存在論的〈良心〉を
 封殺することができるという勝算である。

 この戦術はよくできている。ハイデガーには勝ち目がない。

 レヴィナスは哲学のきわめて教科書的ともいえる常識に訴えて
 正々堂々と王手をかけてきている。しかしこれは意外な裏技である。

 教科書というものはそれが余りに素朴で基本的であるが故に
 軽んぜられ埃を被り忘れ去られる。

 とりわけ、高度で現代的な問題や議論に
 プロフェッショナルに熱中没頭している者ほど、基本中の基本を見失う。

 あの大哲学者ハイデガーにも大きな隙があったのである。
 レヴィナスはそこを突いてこの巨人を倒した。

 だが、わたしたちはまさに同じようにしてレヴィナスの隙を突いて
 この二人目の巨人を倒すことができる。

 少しも専門家的なやり方によってではない。

 教科書レヴェルの乏しい知識だけによって
 レヴィナスに正々堂々と王手をかけることができる。
 また、そうしなければならない。

 レヴィナスの倫理学の意外な正体は
 それが習性学・性格学としてのエートスの学に過ぎない
 ということなのである。
 だとすればパトスの存在論に過ぎないハイデガーに優越するものとして
 己れを示してみせたとしても、
 逆にそこにこそレヴィナス哲学の限界は決定的に示されている。

 エートスを形成するものはエトス(習俗・慣習・習慣)である。
 良いエトスに染まれば良いエートスが形成されるが、
 悪いエトスに染まれば悪いエートスが形成される。

 エートスの形成の学としてレヴィナス哲学が
 どんなに素晴らしいものであったとしても、
 それが良い人間を生み出し得るのは
 良いエトスの許に置かれた場合のみに限る。
 逆にわたしたちがその許に置かれているような悪いエトスの許にあっては、
 レヴィナス哲学はその意に反して、
 ただひたすら悪い人間だけを生み出し続けることになる。

 すなわち先決問題として、
 存在論より倫理学より前に解決しておかねばならないのは
 われわれがその許に置かれているこの悪いエトス、
 悪い社会、悪い文化構造の徹底的な批判と改造であり、
 それを妨害しようとする腐敗した権力に対する革命と戦争であり、
 政治闘争である。

 わがまま(パトス)はいけないといって
 一方的に倫理や規範(エートス)を押し付ける
 支配的な社会機構(エトス)が
 批判をまぬかれたまま腐敗堕落し、
 健全な反省的判断力をなくしたまま
 悪い方向へと合目的性を誘導しているような社会、
 つまり大人がロクデナシであるような社会で、
 子供がそのロクデナシの大人になるためにおのれのパトスを抑圧し
 教育され検閲され調教され服従させられ
 死に至るまで我慢させられねばならないような義務は
 もはや断じて認めがたい。

 他者が明白に悪であるような社会では、
 レヴィナスの〈汝殺す勿れ〉の倫理は
 正義の名において既に失効してしまっている。
 それはふざけた偽善者のたわごとであるしかない。
 ただの反動的で抑圧的な言葉でしかない。