イスラム形而上学によると、
神は〈ある〉(本質 mahiyah の意味において)といわれるが、
神が〈存在する〉ということは不可能であるといわれる。

この場合、〈存在する〉とは〈実存する〉(wujud)の意味である。
イスラム哲学では存在(wujud)と本質(mahiyah)の区別は非常に厳密である。

(wujud)はラテン語のexistentiaにほぼ合致するものようだ。
existentiaそしてexistenceつまり実存は、実在性の基体、
基盤からの引き離しを意味するラテン語ex-sistereに由来する。

基盤=基体という背景(fond/ground)の
素地の質料性(materialité)から引き離された
形態(figure)または形相(form)は実存するもの、
すなわちwujudしexisterするものと考えられる。
つまり、それはレヴィナスのいう実存者(existant)である。
レヴィナスはだからこそ、
存在(esse/être)から直接出てくるような存在者(étant)
というテルミノロジー(用語法)を用いなかったのである。

実存する(ex-sistere)という語は、
その「引き離す」という語源的な含意のなかに
基体の質料性との掻消しえない分離性=関係性の痕跡を
(去勢または割礼の心的外傷をエングラムとして)刻み込んでいる。

痕跡の問題、それは鋳型の問題、烙印の問題、
影をその似姿として押し付ける神という専制君主の問題を考え込ませる。
ゴーレムの創造とエロヒムの息である原初の言葉の問題がそこにあるのだ。

リルケ=マルテの引き剥がされた裏返しの顔のイマージュと
鋳型の無気味な問題。
また、安部公房の〈他人の顔〉すなわち(他者の顔貌)における
〈仮面〉の問題を無視することはできない。

とりわけ安部が重要であるのは、とりわけ我が国・日本においては、
レヴィナスの存在の暴力への最後の抵抗の拠点であった筈の
他者の顔貌ですらもが裏返され剥奪され我有化されて、
存在の匿名性の暴力に仕える別人の顔に、
ギュゲスの指輪に人格改造されてしまうといううんざりするような悪夢、
わたしたちの国の文化のほんとうのおぞましさをみせてくれるからである。

わたしの別人論の見地からみて安部の『他人の顔』は重要な作品である。

レヴィナスの他者の顔貌は、西欧的な〈存在〉の暴力に対して、
それには還元不可能な他者の他者性を外部性として
際立たせることに一応成功してはいる。
しかしそのようなレヴィナスの倫理学は、
むしろ〈空〉の暴力が支配的である我が国の
ファシズムよりも邪悪な天皇制においては絶望的な程に無力なのだ。

わたしの考えでは、
日本的自然を支えるこの〈空〉集合主義、
〈空〉なるものの仏教的形而上学、
〈仏教的なもの〉、〈仏〉の悟り澄ました優越性、
大東亜共営圏主義、東洋的精神こそ
西欧形而上学(存在論)やオリエンタリズムよりも
邪悪で許しがたい敵なのである。

レヴィナスだけでは戦えない。

オウム真理教と麻原彰晃の問題は
笑って済まされない程に根の深い問題を構成している。
その根底に天皇制や幕府よりも深い仏教的なものの邪悪さをわたしは見る。
仏と空と中間的なものとの戦いは、
むしろ美学的に追求されねばならぬ問題である。

如何にして日本的自然であるというあの〈空〉を破壊するべきか。

〈空〉の野蛮さ。
日本においてむしろ非人称的なものはいつも表面に露出している。
蓮實重彦のいうような表層批評宣言だの物語批判だなどというものこそ
この国においてはなんら目新しいこともない
野蛮で邪悪なものの支配を確立し続けてきているのである。

表層批評というのはいつでも日本の支配的な美意識だったし、
物語=説話文学的なものに対する破壊は、
常に〈空〉を有り難がる有難迷惑的糞坊主どもの
説教の優位を回帰させるだけだ。

同一物の永劫回帰よりも悪いのは〈空なるもの〉の永劫回帰である。
空なるもの、空しいもの、空々しいもの、
中身のないもののために人間が犠牲にされる。

〈空〉この中観的なものこそわたしの不倶戴天の敵である。

〈空〉のイデオロギーに支えられながら、
決して己れの無神経さを反省しようともしない
糞坊主的日本的常識(小林秀雄)や
日本的リアリズムこそ民衆の敵なのである。

色即是空的なものこそ破壊しなければならない。
悟り澄ました人間は、慈悲と称して微笑するだけで
決して真には女子供を愛さない。
常に美を色を形を、
空によって再定義されるような即是空的形式の方へと巻き上げて徴収する。
常にそうやって年貢を納めさせるのだ。

自己を隠蔽する幕府的=征夷的なものや、
実体の無い大名行列(名辞だけの系列の行進/数列)が、
そのようなものとしての空なるお上に逆らえないことこそが、
わたしたちを不幸にしている。
わたしたちは顔(人格)も存在(自己同一性)も
〈空〉によって簒奪されてしまっている。

それは言い換えれば、わたしたちは主語でも主体でもありえず、
ただ主観でしかありえないという
無残な身分におかれているということである。

ここでいう〈主観〉的なものというのは、
西欧でいうような能動的主観性ではありえない。
それは受動的で他動的である。
いや一番悪いのは依存的であるということである。

主観的なものは私的なものを殺害している。自我を否定している。
決して超越論的であることのない無我の内在的野蛮性によって
わたしたちは侵略され占領されてしまっている。

この〈空〉に立ち向かうべきである。
この〈空〉にいつも敵対してきたのは〈美〉である。
それは真でもなく善でもなかった。

美神だけがいつも空に剣を向け、
この国の人間の個性化原理でありえてきたことを忘却するべきではない。