レヴィナスにおいて、自己同一性が実存者の存在様態であること、
それこそが「自我」と「自己」との二重化/分身の条件である。

自己同一性は既に他動詞的な関係性であり志向性である。
自動詞的的な裸の事実〈存在〉(~が在る)が
他動詞的な〈繋辞〉(~である)へと転換する
位相転換(hypostase)のなかで、何が起こっているのか。
それを文法学的に見つめなおしてみることにしたい。

さて、繋辞(~である)とは代補すること、補語をとることである。
それはその背後へと引退するズレの、差異/運搬の動きによって
原初的かつ非人称的な〈il y a〉から己れを運び去りつつ全面撤退することである。
しかしそれは、本来的非人称動詞ではなく、転化的非人称動詞である。

この撤退によって自動詞形の存在は現在分詞化(名詞化)する。
つまり存在は存在者になる。
この存在者=名詞が補語になることを通して
存在(~がある)は己れを繋辞化して「~である」になる。

繋辞となった存在は、その存在者と撤退しつつある意識とを結合する。
自己同一性は自己意識を自己繋縛として双対性として形成する。
それは他動詞的な関係性であり志向性であるが、孤立している。

位相転換とは図と地の反転のようにして
背面へと沈み行く存在の深淵を存在者として浮き立たせる代償に
自らを沈み行く意識の深淵となし、存在の夜を我がものとなすことであるだろう。

そのようにして非人称の存在〈il y a〉は、
その私的な夜のなかに引き込まれて自己化され、〈もの〉となる。
それは「自我」の身代わりの「自己」という想像的な対象となるだろう。

無は物質化される。そして意識はこの物質と結び付く。

実存者の孤独が単純な孤独でないのは、レヴィナスも認めるように
それがそれ自身を繋辞の魔力によって二重化した同一性、
単一性またはパルメニデス的〈一〉であることを失った同一性であることを意味している。

〈存在(実存)〉から〈繋辞〉への転換は確かにハイデガーに言わせれば存在忘却である。
〈~がある〉という Dasein から〈~である〉という Sosein への転換である。
ニコライ・ハルトマン風に言えば、事 Dass が何 Was にすりかわっている。

しかし、それは正確にécceité(このこれ性)へと翻訳(仏訳)された
Dasein(定在)ではないだろうか。自己とはまさしくこのこれなのだ。

現存在(être-là)の空虚な場〈そこ(Da/là)〉が
真にドゥンス・スコトゥス的な個性原理たるécceitéになるためには、
それはなによりもまず〈ここ(ici)〉にもちこまれねばならない。
中性的な通性原理である何性quidditéによって、それはなされているのではない。
レヴィナスのイポスターズは、類から種を引き出すように遂行されているのではない。

そうではないだろう。
Daseinは個性化のための形相écceitéとして機能している。
それはトマス的な第二質料(materia signata)による個性化とはいえない。
寧ろ可能的にしかありえないといわれる、
全く無規定な第一質料/純粋可能態として〈il y a〉は見いだされているからだ。

ところで、レヴィナスの見いだした〈Da〉は、
林間の空き地つまり無限の質料=森のなかに
予め有限的に切り開かれたハイデガー的な明るみ(Lichtung)、つまり形相なのではない。

もし、そうなのだとすれば、その場合、質料の森林もまた、
その形相によって既に規定された質料=第二質料であることだろう。
そうではなく、レヴィナスの見出したDaseinは、
まったく規定されていない質料、形相なき質料、第一質料そのものなのである。

そして、形相を欠いていても現実的に存在する質料(可能態)という主張は、
まぎれもなく実に、ドゥンス・スコトゥス起源のものである。

écceitéはここ(ici)に生じる位相転換されたDaseinである。
ということは、ハイデガーではなく、レヴィナスの方こそがやはり、
ドゥンス・スコトゥス的な個性化原理écceitéを
実はきわめて思わぬ仕方で、巧妙に用いているのだ。
すなわち、écceitéを形相ではなく質料(純粋質料)として用いる唯物論である。

さて、質料(hyle)は元来森林の材木を意味した。それは素材の意味である。
ギリシャ的自然であるphysisは、既に製作的かつ本質=現成的なものとして
ウーシア(存在/根源)のつまり形相的(eidétique)な開発に、
存在の明るみに、〈光〉に属する。
これに対し、アナクシマンドロスの〈το απειρον〉つまり無限定なるものは、
全く未規定なもの、物質的無限として根源以前の初源(αρχη)として、
自然以前の自然、ギリシア的〈光〉の前の〈闇〉としてある。
〈il y a〉とはまさしくこのようなアナクシマンドロス的な無限である。


しかし、下記をなお検討すること。
※アナクシマンドロスの無限者についてのアリストテレスとハイデガーの見解。
※『自然学』においてアリストテレスは場所と事物の同一性をその限界面の一致から主張している。場所は事物を包み込む一種の面と考えられ、また形相でも質料でもないとされている(図と地の同一性にそれは似ている)。また彼は空虚の存在をそこで否定している。空虚は物体から独立的にもそれにによって占められる空間としても物体の内部にも存在しない。
※『自然学』(IV-1)無限απειρονと場所τοποςの関連。