【1】他人の節穴を通して自分を観てはならない。それは〈死〉を意味する。

【2】〈存在する〉というとき、人は神の影と擦違う。
 神の影は取逃がされる。
 しかし、神はその人の肌の上を横切り、
 体のなかを突抜けてゆくような〈誰か〉として
 過越す通過であり、そのようにして人をinitializeする
 古えのイニシエーション(通過儀礼=秘儀伝授 initiation )として、
 人をそれに中に(in it)置換える純粋な希薄な出来事として感受される。

【3】わたしが形跡もなく消え失せてしまった次元でわたしをつかまえておくれ。

【4】〈存在する〉は自己同一性の結ぼれを解き、
 自我を自己から解放するような自己の現前の消去である。
 〈わたしはわたしである〉の繋辞がその繋縛の紐帯を緩め、
 〈わたしである〉という自己の衣が解けて落ちる。
 自我は〈わたしで〉(奪格)をなくし、
 〈わたしは……ある〉の一糸纏わぬその裸体性のうちに光輝する。
 わたしでなくなったわたし、〈わたしで〉をなくしたわたしは、
 このとき自同律の彼方に存在している。
 だから〈わたしはある〉は〈わたしである〉ことの放棄であり、
 〈……〉の中断のなかで実は眩く光輝く神聖な〈  〉への、
 語りえぬ空白への接吻である。

【5】三位一体と処女懐胎の観念は、自己同一性の地上的呪縛の観念に置換えられねばならない。

【6】わたしは〈自己同一性〉において一人なのではなく、
 寧ろ自己に縛られた不自由な自我として二重体である。
 自己同一性は実は自我と自己が相互繋縛しあうような
 自己分裂の統一としての同一性であって、
 この〈一〉なるものは実は半々であり、分割可能であり、二元論的である。
 双対的であり二項対立的である。
 それは二つのそっくり相似形の〈1/2〉の綜合(合成)であるに過ぎない。

【7】神は〈自己〉を略奪する。
 そのことによりわたしは〈わたしはある〉に目覚める。
 すなわち、〈自我〉はその〈自己〉なき処女性の純潔のうちに、
 自己なしの自立として自己から独立する。
 〈わたしはある〉とは自我の自己からの独立宣言であり、
 もはや自己に依存しないこととして、
 個人性(分割不可能性)及び人格の観念のうちに己れを定位する。
 それは語の最も厳密で品格の高い意味で〈自己犠牲〉である。
 〈自己〉を神への犠牲に捧げることなくして、
 自我は真の人格の主体たることはできない。
 このことを『精神現象学』のヘーゲルも
 『存在と時間』のハイデガーも
 『実存から実存者へ』のレヴィナスも基本的に見損なっている。

【8】存在の位相転換(hypostase)が問題なのではない。
 同一性の存在への位格の転位における
 その位格(hypostase)が問題なのだ。
 主題=基体を間違えるべきではない。
 それは正しく三位一体の人格(personalité)への定位となるべきである。
 三位一体である権利は人間の側にある。
 自同者に逢着してしまうような存在論こそが邪悪なのであって、
 寧ろ自同者を解体し人間の尊厳を確立するような
 革命的な存在論は三位一体論のなかにある。
 三位一体と処女懐胎の観念は本質的に切離しがたい完全な連関にある。
 しかし重要なのは父と子と聖霊なのではなくて、
 寧ろ処女にして娼婦なる聖母マリアである。
 自我は子ではなく寧ろ神の花嫁であるマリアであり、
 真の主体性は男女の性差にかかわりなく女性性なのだ。
 自我は実体である。そしてこの自我は女なのだ。
 わたしは存在する、それは美しいことである。
 何故なら自我は美的実体であり、
 必然的に美の女神アフロディテにして処女神アルテミスだからである。

【9】一個の瞬間は自分自身を擦違う。それはそれ自身を過ぎ越す。
 瞬間、それはそれ自体において永劫回帰し永劫反覆する過越の祭である。

【10】ここに二者択一がある。
 自我を確立して永遠の生命にあずかるか、
 それとも自己を探求して無間地獄に陥るか。
 自我か自己か――あれかこれか。