レヴィナスは『時間と他者』のなかで
〈実存者〉と〈実存すること〉の間の
関係性であるとともに出来事でもある位相転換を
図式的(シェマティック)な機能を果たす
根源的な時間(現在)であるといっている。

機能ないし作用としての現在は非人称の無限に内的分節をもたらし、
存在論的図式(シェマ)を完成させる(『時間と他者』邦訳書p22)。

このような〈現在〉ないし〈瞬間〉は、むしろ差異の線であり境界線であり
ドゥルーズが『差異と反復』冒頭で考察しているような
黒白の塗分けまたは明暗法であるといってよいものである。

つまりレヴィナスはハイデガーの存在論的差異を、
あくまで時間的かつ力動的(ダイナミック)な、
つまり空間的でも静態的でもないものとしてだが、
それでも図と地のゲシュタルト的関係に準えつつ捉え、
かつまた存在論的差異は単にスタティックな区別性ではなくて
それ自体が位相転換という根源的運動を孕む動的な差異なのだ
と捉え返しているのだといえる。

存在論的差異とはトポロギー的な存在/存在者の位相転換図形なのである。

レヴィナスは例えばメルロ=ポンティのように
明示的にゲシュタルト図形をメタファーとして用いてはいない。
そのことが彼の記述を必要以上に分かりづらくしている。
しかしその比喩形象は思考のなかで確実に機能させられている。

存在論的差異は〈現在〉のゲシュタルト図形であり、
この図形は存在者(図)と存在(地)の
二つの様相的成分の結合体であるといえる。
だからそれは明晰であるというよりも判明(ディスティンクト)なのだ。

存在は背景へと沈み込むことを通して無化しかつ質料化してゆくが、
それこそが存在の呪縛そのものなのであり、
存在しないことの不可能性として存在者を呪縛するのである。

存在者は地の上の図、すなわち
質料(地)のなかに掴まれひきずりこまれつつある形相(図)
としてある他にないものとして己れを見いだすだけである。
つまり存在者は存在内存在者でしかありえないのである。

〈存在/無〉及び〈存在者/存在〉の対立式を重ね合わせ、
それを図と地の存在論的分節としてみること。
存在論的差異のアナロジックな統一性(unité)の有機的全体構造を
スコラ哲学的な類と種差のシステマテックな差異、つまりそのような
説明的な差異(カテゴリー的=述定的差異)によってではなく、
命題それ自体を成立させる主語と述語の間の差異、
二元論(dualisme)二元性=二重性/双対性(dualité)においてみること。

そのようにして見直してみると、レヴィナスのイリヤ=イポスターズ論は
寧ろ極めてメルロ=ポンティの『見えるものと見えないもの』に展開された
ゲシュタルトの出現=現成(Gestaltung/Wesen)論に近いのである。

実際にメルロ=ポンティはそこでゲシュタルトの出現を
「純粋な〈il y a〉」と呼んでいるが、
彼の論考のなかでその恐ろしさを奪われたイリヤ、
寧ろ自然性というべきものに和らげられたイリヤ=ゲシュタルト化を
問いながら、恐怖には鈍感だが感性的には敏感で
繊細な思考をするメルロ=ポンティは、
恐怖に憑かれてそれをいくらか粗暴に投げ出し
倫理主義的に性急に封印しようとするレヴィナスよりも
はるかに深くその闇の不思議に分け入っていることを認めるべきなのだ。

存在論的差異をメルロ=ポンティは存在論的偏差と言い換えている。
彼の用いている〈偏差〉の原語である〈écart〉とは、
別に〈隔たり/逸脱/飛び地〉及びトランプゲームでいう捨札を意味する。
それは単なる均等な差異ではなくて、
間隔をあけること、引き離すこと、
逸れること、ずれることであるような運動する差異である。

それは邪魔物をかき分け・押しのけることであったり、
排除し・無視し・除外することでもある。

レヴィナスにおいて、背後に後退する質料/大地の闇として
イリヤという非人称的意識/存在(Bewußtsein)は記述された。
要するにこれはメルロ=ポンティのいう
見えないもの(invisibilia)としての
背景の背景化であるに過ぎないだろう。
それが沈んでゆくからこそ図は浮き上がるのである。

大地への定着としてしか図/形相である主体は盛り上がりえない。
イリヤの背後後退はゲシュタルト化の、
つまり根源的設立[設定]Urstiftung(メルロ=ポンティ)の条件であり、
だからこそそこに〈なにもない〉が、存在しないことの不可能性を構成するのだ。

存在の呪縛とは背景において存在が存在者ではなくなりゆく
このゆるやかな無化によってこそ、
図において存在者がますます存在させられてゆくということであるだろう。

確かにそれは恐怖だ。わたしはそこでは見るものなのではなくて、
そのぞっとするイリヤの非人称的深淵の深まるまなざしによって
見られ/見えるものならしめられているからである。

それは深淵の無底に引き込まれ沈みつつ、
存在者が存在の内にあることをこそ意味している。
それは世界外存在であるにしても、内存在的である。
存在者は存在内存在者としてその質料的孤独に捕縛されている。

逆に世界内存在(白昼)こそが、
この世界から切り離された絶対的内存在性からの
仮初であるにせよ(また非本来的であるにせよ)
脱出であり解放であるだろう。
(しかしそれはレヴィナスの自然への嫌悪をも意味しているだろう。)

イリヤを背景たらしめぬためには、
存在者は己れを背景化せしめねばならない。
つまり彼は己れを図示するのではなく
イリヤの虚無性をこそ図示し存在者たらしめねばならない。

レヴィナスは〈眠り〉という〈背後〉に身を引く能力に、
自我を、意識を、つまり自己意識を見いだしている。
すると意識こそが今度はイリヤに代わる背景になるだろう。
それは新しい深淵となるだろう。
するとゲシュタルトの図と地は反転するだろう。
位相変換がここで起こる。質料(基体)は実詞の主体性に転換される。
トポロギカルな場の転位が生じるのだ。
質料は我有化される。イリヤの非人称的虚無性は自己(soi)となる。
自我とは自己意識、自己についての意識
つまり自己を志向する意識のことなのだ。

崩潰する顔ないし差異の核崩壊によってこそ、
つまり残酷さの奇妙な自己否定によってこそ、わたしは在る。

しかしそれはイリヤを場にしているのではなくて
意識を場にしての主体化なのではないか。

自己意識としての自我は直接的に存在することはできない。
それは図ではないからである。
寧ろ間接的にしかそれは存在しない。自我は自己を存在するのである。

それはイリヤが存在者を存在することによって
直接的には存在することの無化ないし延期だったのに似ている。
(不在の間接性というわけだ)。

〈存在する〉が、自動詞〈~がある〉ではなくて
〈~をある〉=〈~である〉という他動詞、つまり繋辞であることへの変換。
それが再帰動詞的な〈自らを存在する〉であるとは
目的語(目的補語)をとる他動詞だということだ。

〈わたし(自我)はわたし(自己)である〉という
(繋辞による自己同一性)と
〈わたし(自我)はわたし(自己)を存在する〉という
(再帰代名詞による他動詞的に実存すること)は同じ意味である。

しかしこれを言い換えれば、主語と述語がクルリと入れ替わって
〈わたし(自己)はわたし(自我/間接目的補語)に存在する〉
ということである。

これは自我が場所化しているということを意味する。
定位するのは自我ではなくて、自己が自我に定位しているのである。