Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]

第二章 神聖秘名 2-10 虎よ!虎よ!

 ROTA TARO ORAT TORA ATOR

 「T、O、R、A……トラ?」
 男の子が文字に這い寄り、そう呟くと、見下ろしていた百目鬼の方を振り返り、ふいに彼を見上げ見据えて叫んだ。
 「タイガー!」
 そして四つん這いのまま、虎の物真似をして、百目鬼にがおおっ、と吼えついたのである。

 その叫びが不意を突いたせいだったのだろうか、百目鬼は一瞬、本物の虎の咆吼を耳にし、確かに眼前に、小さな男の子にすげ変わって、一匹の巨きく風格のある猛虎が、その麗しく爛々と緑色に燃える眸で彼を見上げ、地雷のように重く底響きする威嚇の唸りを立てながら蹲っているのを見てしまった。

 目を疑って擦〔こす〕る間もなく、その虎は、百目鬼に襲い掛かろうとするように大きく口を開け、牙を剥き、その火のように赤く長い舌を震わせ、今度は落雷のように凄まじい声で吼えたてた。
 叫びの重い鎖に撃たれ、百目鬼の躯は、にぶく麻痺してしまったかのよう、その場に石のように凍りついてしまった。

 だが、叫びは飛び掛かることなく過ぎ去った。
 不意に呪縛が解け、百目鬼は後ろにガクリと下がる。
 虎は忽然と消えうせていた。

 いるのは虎縞模様の服を着た小さな男の子で、こちらに向かってにこにこ笑っている。
 火照る顔からカッと汗が噴き出した。
 錯覚の恐怖のせいなのか、それとも、子供の物真似に度肝を抜かれた恥のせいなのか、俄かには分からなかった。

 そのとき、軽やかな歌声が起こり、男の子は声の方に振り返る。

 Tyger Tyger,burning bright……

 歌っているのは金髪の娘、両手を男の子に差し出し、高く抱き上げて、まるで偉大な虎の子の栄光を称えるようにその歌は続く。百目鬼はその節を知っていた。
 20世紀ドイツのプログレッシヴロックグループ、タンジェリン・ドリームの《タイガー》だ。歌詞はイギリス・ロマン主義の幻想詩人画家、偉大なるウィリアム・ブレイクの名作。金髪 の女は金色の声で、その燃える虎の頌歌〔ほめうた〕を青空に歌う。
 その声は麗しく、朗々とし、決して百目鬼の聞いたそのアルバムの女性歌手と比べても遜色のない見事な歌唱の才を示していた。

 Tyger! Tyger! burning bright
 In the forests of the night,
 What immortal hand or eye
 Could frame thy fearful symmetry?

 In what distant deeps or skies
 Burnt the fire of thine eyes?
 On what wings dare he aspire?
 What the hand dare seize the fire?

 And what shoulder, and what art,
 Could twist the sinews of thy heart,
 And when thy heart began to beat,
 What dread hand? and what dread feet?

 What the hammer? what the chain?
 In what furnace was thy brain?
 What the anvil? what dread grasp
 Dare its deadly terrors clasp?

 When the stars threw down their spears,
 And water'd heaven with their tears,
 Did he smile his work to see?
 Did he who made the Lamb make thee?

 Tyger! Tyger! burning bright
 In the forests of the night,
 What immortal hand or eye,
 Dare frame thy fearful symmetry?


  タイガー、タイガー、赫々〔あかあか〕と燃え
  夜闇の森のなかで熾〔さか〕りかがやく
  どんな永遠の手が、まなざしが、おまえの
  恐ろしいまでの均斉美をかたちづくったのか

  どんな遠く隔たった深みに、また高空に
  おまえの眸の炎〔ほむら〕は燃えあがったのか
  どのような両翼でその者は羽撃き昇ろうとするのか
  どんな手がその炎を拏み取るというのか

  ……

  どんな鉄鎚、どんな鉄鎖だ
  またどんな鎔鉱炉におまえの頭脳はあったのか
  どんな金床〔かなどこ〕、どんな強力な鷲拏〔わしづか〕みが
  そんな命を奪いかねぬ凶暴な猛りを敢えて抑えられようか

  星々が彼らの槍を投げ降ろし
  その涙に天国が泣き濡れたとき
  かの者は己れの業を眺め、満ち足りた笑みを零したのか
  仔羊を造られたその手でおまえを造ったか

 百目鬼は最後の一節を口ずさみ、女の歌に唱和した。
 すると、女は歌を途切り、紅潮した顔を輝かせて、百目鬼に緑の瞳を瞠る。
 微かな驚きの表情から、みるみる氷が解けるように親しげな微笑へと女の顔がほぐれてゆく。

 「ほう、ブレイクか……」
 脇から黒人の声が割って入った。
 「美しい節回しだな、それも随分と新しい」

 「タンジェリン・ドリームです」百目鬼は言った。
 「CANやファウストと並ぶ、20世紀前衛ロックの古典的バンドだ」

 「テルアビブの学生どもが最近騒いでいるあれか……。お嬢さん、あんたイスラエル人なのかね」
 
 「いいえ。イギリス人よ」女は子供を撫でながら言った。
 「ロンドンでもこのごろプログレッシヴロックが甦っているのよ。ベルリンにいつまでも負けてはいられないわ。わたしたちも多くの真のロックの遺産を持っている。ビートルズだけを生んだ国じゃない。意図的にアメリカのコマーシャリズムに葬られてきたけど、もともとロックのシーンをリードしてきたのはロンドンだった」

 「エックハルトもイギリスには敬意を表しているよ」
 百目鬼は言った。
 「彼らは英語を否定しているんじゃない。アメリカニズムを拒絶しているだけなんだ。ぼくはエックハルトを知ってる。ヘンリー・カウの《西洋文明〔ウエスタンカルチャー〕》を非常に高く評価している。それにディス・ヒートのチャールズ・ヘイワード、サイキックTVのジェネシス・P・オリッジは、ブリクサ・バーゲルトと並ぶ彼の偶像〔アイドル〕だ。」

 「あなた、ロートレアモンを知ってるの!」
 女は驚嘆した。《ロートレアモン》とはエルンスト・エックハルトのステージネームだ。
 「あの《ラビ・ニーチェ》の?」

 「一昨年、取材に行って、友人になった。彼は何というか……その、非常な思想家だ。不思議な預言者でもある。ただのミュージシャンじゃない。とても奇妙なことを考える男だ……」

 百目鬼は、エルンスト・エックハルトの非常に痩せた独特の風貌を思い出す。
 熱い嗄れた声と大きな、やや病的なまでに熱い輝きを発する鳶色の瞳を。
 思い出す度に、胸を微かに締め付けるような、つらい痛みが撃つその思い詰めた横貌を。
 ヴォーカルのツァラトゥストラとクリュタイムネストラの後ろで、いつもどこか悲しげに俯いてベースを弾く、目立たぬ、黒装束の、キリストを思わせる程痛々しく痩せこけたインテリの青年ロートレアモン。ステージでは最も目立たない彼こそ、《ラビ・ニーチェ》の、そして、その他のすべてのベルリンの新しいバンドの偉大なリーダーだった。

 偉大なペシミスト、エルンスト・エックハルト、決して笑わない、だが温かい人柄と冷徹な頭脳を、その憂鬱な狂気と共に併せ持った人物。
 厳しく優しいロートレアモンは、ロック文化の水準の低いカイロに赴任した百目鬼が聞く音楽に不自由するのを気遣い、時々手紙と共に、貴重な彼のコレクションをダビングしたディスクを小包に一杯詰め込んで贈ってくれていた。
 手紙には簡単な近況報告と共に、難解複雑な彼の苦悩と、半ば妄想狂じみた暗い予言や、世界の未来への絶望的な祈りが詰め込まれていた。

 エックハルトは、謎めいた、とても大きく得体の知れない影といつも戦っていた。
 ロックへの偏見や、それを作り出したメジャー・レーベルや、また、大衆文化の堕落に怒りの拳を振り上げるテルアビブとベルリンの学生運動家たちの頭上を遥かに超え、孤高の人ロートレアモンのあの大きく見開かれた悲しげな瞳は、より巨大な権力による弾圧の到来を、そして彼らの運動の悲惨な敗北の末路を既に予見し、更にもっと恐るべきものの予感を雲のなかに定めようと瞠られていた。

 それはただ天才的な半狂人だけが抱く奇抜なメランコリーとして片付けることのできない焦燥した切迫感と、痛ましい真摯さに溢れた手紙であり、世界が大戦争へと突然崩れ落ちて人類が滅亡の危機に晒されるという彼の悲愴な観念に異様なリアリティーを与えていた。

 当時、世界にはどこにもそんなきな臭い気配はなかった。
 だがエックハルトはどうしてそれを嗅ぎ取っていたのか。

 当時、百目鬼だけではなく、誰もエックハルトの奇怪な予言が現実になろうとは信じていなかった。
 そしてエックハルトはその予言の成就を決して見ることはなかった。

 世界が滅ぶ前に彼は撃たれ、その屍は路上に晒された。
 暗雲は彼の突然の死から急速に成長して世界を覆い尽くし、地球の空を黒く埋めた。

 エックハルトはだが自分自身の死も予言していた。
 《ぼくはいつか犬のように殺されるだろう》というのが口癖だったエックハルト。
 しかしまた、戦争の後に、どこかで神の子が発見されるだろうとも言い残して逝ったエックハルト。

 後に百目鬼が、オカルト雑誌の記者になったのは、アルジェリアで知り合った金髪のイギリス娘モードリンの影響もさることながら、もう一人、このドイツの亡き友、悲運の人エックハルトが残したたった一つの希望の小さな曙光を無意識的に追い求めてのことだったのかも知れない。

 とはいえ、その時、その明るいアルジェリアの砂浜では、まだ何かが失われる予感のかけらすらなく、空は世界の永遠の平和を堅牢に支える不動の天蓋のように、一点の曇りもなく、何処までも何処までも深いブルーに冴え渡ってみえていた。