Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]

第二章 神聖秘名 2-9 邪龍の暴言

 「ポルフィリオスはギリシャ人としての良心にかけて
 キリスト教を放置してはおけぬと感じていた。何故か?

 『キリスト教徒駁論』は湮滅されてしまったが、
 エウセビオスという護教論者が伝える断片によれば、
 ポルフィリオスの目に映ったキリスト教というのは
 吐き気を催すような儀式を行う許しがたい代物だったのだ。

 《人間が人間の肉を食い、
  自分と同種同類の人間の血を飲み、
  しかも、そうすることによって永遠の生命を得るということは、
  この上もなく馬鹿げたことであり、残忍窮まりないことである。》
(1)

 まったくその通り! 
 ポルフィリオスのような繊細な文明人には
 野蛮人の残酷な儀式のなかの深い宗教的感情など理解できぬどころか、
 絶対にやめさせるべき悪魔の所業と見えても仕方なかったのだ。

 いいかね、これこそがまさにキリスト教の剥き出しの真実、
 その元々の正確な姿だった。全く悪魔崇拝そのものの光景だったんだ。

 だからこそ大弾圧を受けねばならなかったし、
 また生き延びるためには大いにその儀式の生臭さを改める必要があった。

 このとき恐らく大きな工夫がこらされ、
 誰の目にも人肉を食ったり生血を啜ったりしているようには見えぬ
 至って平和そうな外見が巧みに捏造された。

 こうしてやっとローマはキリスト教を公認してくれ、
 次いで国教化が成ったのだ。

 だが、本当に聖餐の儀式で人肉や生血はもう用いられなくなったのだろうかね。
 ふん、どうしてどうして坊主どもは実にうまくやってのけたのさ。
 奴らはきっと悪魔と取引きでもして、
 人目を欺く巧みな抜け道を拵えることに成功したのだ。

 今の法皇庁ではどうだか知らぬが、
 ローマ法皇が代々伝授されてきた神秘な魔力の話を聞いたことがあるかね。
 法皇には、ふん、パンを血の瀝る人間の肉に、
 そして葡萄酒を人間の血に変える奇妙な力が備わっているのだというぞ。

 聖体――ふん、お嬢さん、
 おまえさんの言った《マナ》のなれの果てであるそのパンは、
 実は魔法で口当たりよくまた見目麗しく姿を変えられた人肉だ。

 ハッ、おまえらクリスチャンというのは、それとは殆ど気付かぬまま
 野蛮な人肉嗜喰〔カニバリズム〕の呪術を延々と続けてきた
 食人鬼〔オーグル〕と吸血鬼〔ヴァンパイア〕の集団なのだ!」

 「何と冒黷的なことを……!」
 金髪の娘は怒りに蒼褪めた。
 クリュセ・グノーシス正教会は、その主知主義的な教義にも拘わらず、多くのカトリックの伝統的な儀式を受け継いでいた。解釈はローマとは違っているが、聖体拝領にも深い意義を認めている。聖体は《キリストの心》を意味しているのだ。
 女は子供を抱き締めたまま、震える声で言った。

 「あなたは、まるで海辺の砂の上に立つ龍〔ドラコ〕のよう。海から上がってくるあの恐ろしい獣〔ビースト〕のようなことを言う!」

 「わたしは赤い龍ではない」
 黒人は悪びれたように肩を竦めた。
 「美しいお嬢さん、そういうあんたは、まるで子供を抱いて荒野に逃げる《日を着たる女》のようだが、頼むからその子供を連れ去って逃げ出さんで頂きたいね。その子の保護者はわたしなんだから。……いや、揶揄〔からか〕って悪かったよ。別に悪意はないんだ。どうか、その子を降ろしてもらえんかね。その子のご両親から預かって来ている手前、ちゃんと連れ帰ってやらんとわたしは訴えられてしまうんでね」

 女は男の子を降ろしてやった。
 男の子は不思議そうに、女と黒人と百目鬼の三人を見比べていたが、やがて皆ににっこりと笑った。その笑顔が座の気まずい雰囲気を和ませた。

 「ところで、マドモアゼル」
 黒人は頭を掻きながら穏やかな調子に変わって言った。
 「あんたの書いたさっきのタロットの回文だが、実に残念なことに一つ肝心な語が抜けているね。そう、これだ……」
 男は枝を取り、砂の上の文を書き直した。

 ROTA TARO ORAT TORA ATOR


【注】(1)バーバラ・ウォーカー『神話・伝承事典-失われた女神たちの復権-』青木義孝 他訳 大修館書店 1988 三八一頁