若きレヴィナスはハイデガーの存在論を可能性の哲学、
 デュナミス的という語の正確な意味に於いて
 ダイナミックな世界内存在の可能性の思想であると
 炯眼にも洞察している(「ハイデガーと存在論」)。

 これに対しレヴィナスの倫理学は現実性の哲学、
 エネルゲイア的という語の正確な意味において
 エネルギッシュに存在するのとは別の仕方を志向する
 脱出の哲学であったということができる。

 わたしはこの両者の後に立つものとして
 終末性または目的性の哲学を志向する。
 すなわち背教の定位の思想である
 apostase=apostropheの思考はエンテレキッシュなものであるだろう。

 stanzaからstropheへ、エクリチュールのグラマトロジーから予兆学へ、
 法から運命へ、デザストルからアストロロジーへと背教すること。
 如何に判断するかをむしろ如何に占断するかに転調させること。
 そして更にポストモダンとは異なる言語ゲームとして
 クロウリー的かつドゥルーズ的な法=欲望のアイオーンのゲーム、
 ハルマゲドンまたはアポカリプスの思考を構想すること。
 〈如何に判断するか〉から〈如何に構想するか〉へのトロープ(転義法)。
 書物=バイブルまたはバベルの全体性(tout-totalit )を
 易やタロットや錬金術のthothalit (トート性というべきもの)に
 如何にして変容せしめうるか。
 鉄の言葉であるアイロニー(反語)ではなくて
 金言への翻(訳)語のユーモアに賭けること。
 日本語というよりは似翻語で思考すること。
 ジャック・ラカンの考察したような
 不可能観念としての処女生殖的な〈もの〉
 (l'a-chose parth nogénétique)を、
 この純粋な出来事eventusを、
 如何にしてわれわれのテロスとして引き受けつつ、
 われわれのための核兵器たらしめるか。等々
 ――とはいえこれらのことはメモランダムに留め措くことにしよう。


 〈存在〉を普遍的=類的なものと特殊的な差異によって、つまり
 〈類と種差によって〉(par genus et differentiam specificam)
 把握することをハイデガーは拒む。

 ところが、ドゥンス・スコトゥスは
 所謂〈超越的名辞〉(transcenentalia)をも
 カテゴリーつまり類と種の系列(series generum et specierum)の
 拡張にしてしまうことによって、
 〈存在〉を類と種差によって一義的に定義できる概念にしてしまっている。
 存在は類であり、普遍的で、単純な、自明の観念となる。

 明らかに『存在と時間』は
 ドゥンス・スコトゥスに反対する立場から開始しているのだ。

 存在の一義性をいうことは存在を類と看做すことになりかねない。
 類は常に限定されたものであるからには、
 存在は拡張されたポルフィリオスの樹の性質に従って、
 非存在によって限定されてしまうことになる。

 ポルフィリオスの樹はデジタルであり、
 アナログつまりアナロギア的思考を引き裂いてしまう。

 また、ハイデガーは
 師匠フッサールの純粋文法学の理念を引き受けながら
 実際にはドゥンス・スコトゥスの著作ではない
 中世の思弁文法学書『意義の様態について』を当てにしている。

 ところがスコトゥスの存在の一義性の思考は
 むしろライプニッツの普遍記号学や普遍数学
 さらに現代の記号論理学や
 一般言語学・記号論(構造主義)の方に繋がる系譜をもっているのである。

 即ち純粋文法学か普遍記号学か、
 フッサールかライプニッツか、
 現象学か記号論(またはサイバネティクス)か
 という対立軸が伏在するのである。

 ハイデガーは明らかに存在の多義性を主張する側、
 つまりアリストテレスからトマス・アクィナスを経て
 フランツ・ブレンターノに至る系譜に繋がる人物である。
 彼は高校生時代、ブレンターノの
 『アリストテレスにおける存在者の多様な意義について』との
 出会いを通じて、哲学にそしてその生涯の問題に開眼したのだから。

 〈存在者は多様な仕方で言表される〉という
 アリストテレスの有名な命題はハイデガーにとっての金言だった。
 これをのちにハイデガーは、一九五五年の講演のなかで
 〈存在者の存在(das seiend-Sein)は多くの襞をなして煌現する〉
 と言い換えている。
 オットー・ペゲラーの指摘によると
 ハイデガーは一九三一年に「古代哲学に基づく諸解釈」という講義において
 アリストテレスの『形而上学』θ巻
 (デュナミスとエネルゲイアについて論じてる箇所)を取り上げ、
 次のような趣旨のことを言ったという。

 パルメニデスは存在を一として思惟したが
 プラトンは無を存在のうちにはめ入れてしまった。

 このように無や非在を存在の中に引き受けることは、
 一が多へと必然的に展開せざるを得ないことを意味した。

 アリストテレスはこの存在の多様性を
 多様な言表可能性という
 述定的な問題(カテゴリー的な問題)となしつつ、
 存在のパルメニデス的一性を、
 存在の統一性を、比喩=類比(アナロギー)の統一として
 思惟することによって解決したのだ。

 アリストテレスの主張する存在の類比的統一性は
 存在の多義性を根拠づけるものであって、
 存在の一義性を主張するドゥンス・スコトゥスとは
 この点において対立する。

 しかし一方で、
 haecceitas(個別性)の思想家であるドゥンス・スコトゥスは
 別の意味では非常にアリストテレス的である。

 アリストテレスは個物をこそ第一実体とし、
 普遍(類)を第二実体としてプラトン的イデア論を批判した人間である。

 ここにはアリストテレスの主語主義というべきものが横たわっている。
 個物は〈これ〉として指示される究極の主語であって、
 述語的なものである普遍は
 それについて言及されるものであるに過ぎないといえる。

 これが極端になると唯名論になる。
 唯名論は述語的なものである普遍を実体とは認めない。
 すなわち可述語=カテゴリーは実体ないし実在とは認められない。
 唯名論は極端なアリストテレス主義である。
 それは第一実体しか認めないのである。

 スコトゥスの立場はそれほど極端ではない(彼は実念論者である)が、
 問題はそれ以上に価値観にある。

 個物を重視し、主語を重視することは、主体性を重視することである。
 この価値観は必ず主語主義として
 そして現実(エネルゲイア)重視としてあらわれざるをえない。

 主語が述語に従属せず卓越するとは、
 主体を普遍=一般であるカトリック教会から
 そしてトミズムから批判的に切り離そうとすることである。

 それはスコトゥスにも唯名論にも更に経験論にもあったもの、
 オックスフォード的なものである。

 類似の態度はレヴィナスにも見られなくはない。
 ただユダヤ的なものは、
 大陸実念論=合理論とイギリス唯名論=経験論の対立の中で
 寧ろ両義的なかたちを取ろうとする(例えば、スピノザを想起せよ)。