ハイデガーの現存在は〈可能者〉であり
 〈自己〉(das Selbst/soi)である。

 わたしは飽くまでも
 初期レヴィナスのイポスターズ論にこそ魍〔こだ〕わるのだが、
 『実存から実存者へ』においてレヴィナスが
 〈ここ存在〉である〈実存者〉を〈自我〉(moi)の人格性として、
 これに対抗的に提起するのは、
 既にして可能性の思考である現象学に対しての
 レヴィナス流の背教の始まりを窺わせるものである。

 ハイデガーの〈現存在とは誰か〉という問いの背景には
 スコラ哲学の通性原理・普遍のquidditasが見え隠れしている。

 これは寧ろ誰性というより何性といった方がよい問いである。
 そして事実またレヴィナスは
 この存在論的何性(quiddité)が誰(qui)を消してしまい、
 〈同〉の秩序のなかに見失われることに逆らいながら、
 『存在するのとは別の仕方で』のなかで、
 〈探求の対象であると共に探求の指針でもある「何(quoi)」の
  存在論的何性(quiddité)から排除される〉他なるものたる
 「誰(qui)」の誰性を鮮明にすべく
 わざわざquis-nitéという造語を作っているほどである。

 確かにハイデガーも
 手前存在者の存在(中世的essentia)にかかわるような何性(Washeit/quidditas)と区別して
 現存在の実存(Exsistenz)にかかわる誰性(Werheit)が
 問題なのだと明言している。

 だが現存在は中世的ではないとしても中性的なのだ。

 ハイデガーの現存在の誰性(Werheit)は
 寧ろ形式(存在様式)上の区別であり、
 それは結局〈実存〉という中性的な存在可能に、
 つまり自己性に自同性に回収されていってしまうであろう。

 ハイデガーの現存在は有限者であり
 また死への存在であるという以外に
 どんな個別性・個性ももっていない。
 つまりむしろ無個性なのである。

 死という個性をもっているだけであるのならば、
 個性をもたないのと同じことである。

 言い換えれば
 〈死〉は現存在を最終的に通約可能にしてしまう共通分母であって、
 しかも再び事物存在の秩序の中に連れ戻してしまうものに過ぎない。

 〈死すべきものである〉というのは
 そもそも古来から三段論法の大前提において
 乱用され続けて来た賓辞であり、
 それによってソクラテスであれハイデガーであれ誰でも、
 その固有名の誰であるかにかかわらず、
 死すべきものとして定義された類〈全ての人間〉に
 媒概念〈人間〉によって徴収され
 帰属させられてしまうところのものである。

 しかし〈死すべきものである〉ことは
 ソクラテスのソクラテス性とは何ら係わりがない。
 またそれを何も明かさない。

 結局それはソクラテスが誰であるかに係わりなく、
 またその歴史事実的に個性的な死に方にも全く係わりなく、
 スベテノ人間ハ同ジデアルという
 共通の運命(人は皆死ぬ)に還元してしまうことなのである。

 誰でもないところの孤独な自己性において
 人は全く個性を持たず、
 むしろそこでは同じ類のなかの種でしかないのである。

 quidditasへのレヴィナスの抵抗は、
 ドゥンス・スコトゥスが
 個性原理(個体化原理)haecceitasという
 奇妙なエイドス(ソクラテスのソクラテス性ともいうべきもの)を
 作り出して
 普遍的かつ(スコトゥスにおいては)無限的なquidditasを限定して
 個体を実現しようとしたのとはややちがっている。

 ドゥンス・スコトゥスはいわば個体性のための形相因、
 別のデュナミスを想定することによって、
 自我の一種の自発性と絶対的な自立性を、
 つまり個体の個人性=不可分割性を肯定している。
 これもいわば一種の存在の彼方、
 一者には還元不可能な〈他〉を与えようとする思想である。

 これに対し、レヴィナスは質料的孤独という個体化原理を語るが、
 むしろこれはトマス的であるといえる。

 アウグスティヌス主義者であった
 オックスフォードのドゥンス・スコトゥスは
 実践学としての神学を説いて、
 結果から原因に至る
 ア・ポステリオリな帰納的論証を蓋然的で不確実なものとして退け、
 トマス主義に対立した人物である。
 彼自身は実念論者だが
 個物にのみ真実在を認めようとする唯名論に
 その実質的な価値観の比重は大いに近いものだといえる。

 ところでこのドゥンス・スコトゥスこそ
 二六才の若きハイデガーが
 その範疇論と意義論の研究を行い
 それによって哲学の教授資格をかちえた問題の哲学者なのだ。

 これは奇妙な哲学史的キアスムである。
 トマス・アクィナス対ドゥンス・スコトゥスの関係は遠望する限り、
 ハイデガー対レヴィナスの構図に似ている。
 ところが実際には系譜関係は逆転しているのだ。

 ハイデガーにあってはではドゥンス・スコトゥスはどうなっているのか。
 『存在と時間』のなかでは
 全くその名前にはお目にかかることがなかったのである。
 むしろトマスへの言及の方が頻りに目につく。

 一体これはどういうことなのか。

 ハイデガーはドゥンス・スコトゥスを
 そしてとりわけその個性原理(個体化原理)haecceitasの概念を
 どのように評価していたのか。

 どのような思想家にもその出発点は
 見落とされがちでも
 一番本質的でまた運命的な何かが隠れているものである。

 ところがこの教授資格論文には奇妙な逸話がある。
 ハイデガーが引き合いに出していた『意義の様態について』という
 当時ドゥンス・スコトゥスの作に帰されていた論文は、
 後に別人の作であることが判明している。

 スコトゥスとハイデガーの関係については今は措いておくしかない。
 これは今後の調査課題としておく。

 ただ現在手持ちの乏しい資料をざっと眺めた限りにおいては、
 ハイデガーはどうもスコトゥスの
 倫理主義的・実践的思想には余り触れておらず、
 むしろスコトゥスの作でない中世の思弁的文法学と
 フッサールの唱えていた純粋文法学の理念を重ね合わせつつ、
 超範疇である〈超越的名辞〉(transcenentalia)である
 存在(有るもの/ens)の
 異なる対象領域への意義分化の問題と認識=判断の問題に、
 つまりやはり普遍性への関心に、
 アリストテレス的な多様な言表可能性をもつ存在の統一性への問いに
 導かれているようなのである。

 スコトゥスのhaecceitasはquidditasにまさしく政治的に対立している。
 それは紛れもなく〈他ならぬこのこれ性〉をいうことによって、
 普遍を排他する他性のニュアンスをもちえている。

 〈排他する他性〉とはしかし何を意味するのか。
 この観念を慌てて説明ないし解明しようとするあらゆる観念を
 一時中断しておく必要がある。

 〈他ならぬ性〉と〈このこれ性〉の不可分な密着的癒合、
 表裏一体性は単純な同一性ではおそらくありえない。
 他ならぬ性(排他性または非他性)は同一性の手前にある。

 わたしが警戒しているのは例えば第三項排除論のようなものである。
 この理論は排他性を説明してしまうが故に間違っている
 というべきなのである。

 〈このこれ〉は〈他ならぬ〉の後にしかありえない。
 それは確かに暴力なのだが、
 暴力は第三項排除のように分かりやすいものではありえない。

 第三項排除論は
 ニーチェが遠近法的倒錯と呼ぶような種類の
 愚かしい=啓蒙的なパースペクティヴを
 事後的に捏造した暴力の合理化でしかないのである。

 常にわたしは経験科学でしかありえない社会学の捏造する
 似非哲学的観念論の空虚な抽象論を認めないし、疑うものである。

 歴史の終焉とか近代の終焉とかいう馬鹿げた時代精神によって
 あの横暴な歴史学はその牙を抜かれた。
 しかしそれに代わってこの歴史なき時代に君臨するのは社会学である。

 非人称的な社会学の
 野蛮な僭主的=恣意的=専制的支配は常に既に有害である。
 社会学者に言論の自由など与えてはならない。
 それは言論それ自体を常に損なうような言論だからである。

 人は彼が社会学者であるその度合いに応じて
 人格を喪失した価値なき人間となる。
 人格を喪失した人間には知性もありえないし、人権もありえない。
 そのような人間は犬ネコレベルの生きる価値しかないのである。

 社会学は社会の社会性それ自体に損害を与えている。
 社会学者が構想する社会は
 人格ある人間が生きられぬような社会である。

 ハイデガーの言ったような世界内存在を
 それ自体駄目にするようなものとして
 社会内存在という別の種類の現存在分析が
 今日必要になりつつあるとわたしは感じている。
 超越論的社会学を構想する必要があるのである。
 しかしそのことは措いておく。