レヴィナス=埴谷雄高は、
 共に横になるというオブローモフ的スタンスを通して、
 ヘーゲル及びハイデガーの〈自同律〉=〈存在〉の欺瞞を見抜き得ている。

 尊厳あるべき真の人格化(personalisation)は、
 命題化されず、また存在の邪悪な助けなしに遂行されている。

 自己同一性(identity/わたしはわたしである)は
 人格(personality/わたし)の根拠でないばかりか敵対するものである。

 自己同一性こそが寧ろ人格破壊を
 弁証法的マインドコントロールによってもたらす。
 それは非人称化を、つまり人格崩壊であるところの
 離人症(dépersonnalisation)をもたらすだけだ。
 レヴィナスのいう〈il y a〉は実質的にいって
 離人症の苦痛に満ちた病理体験以外の何者でもありえない。
 むしろ位相転換(hypostase)が、
 存在から存在者を引きだすような自己同一性(identity)の確立を
 意味するのだというなら
 そんなものはないほうがましなのである。
 それはただの非人称化であり魂の空洞化を意味するに過ぎないのだ。

 わたしもかつてそのような俗流心理学的誤謬推理を犯して
 『実存から実存者へ』の位相転換論を誤読した
 (1989年に大学の卒論でまさにそのように格闘したのだ)。
 しかしこの誤読は却ってそれを変に正読した場合以上に
 実り多いものだった。それは優れた誤読である。
 さもなければわたしは〈別人〉――この最も無気味な隣人――という
 真の大問題を発見し得なかったであろう。

 〈わたしはわたしである〉というような自同律的同一性は、
 つまりそのような〈自己〉は
 主体の人格とは全くの別の人格〈別人〉である。
 それは中身のない空洞を意味する。
 故にわたしは〈わたしでないようなわたし〉でしかありえないし、
 またあってはいけない。

 自己同一性は別人であるが故に拒絶しなければならないのである。

 存在の意味など問うべきではないのである。
 存在とは自己同一性である。
 しかし自我の人格性は存在とは一致しない思考自体からこそ到来する。
 それは存在によって根拠づけられていない。
 だとすれば何によって根拠づけられているのか。

  *  *  *

 自己同一性すなわち自己(soi)と自我(moi)の内的差別を
 繋辞(繋合詞copula)の交尾=交接(copulation)において
 繋連=痙攣的に融合させること、
 この性交のもたらす脱自=恍惚(exstase)は
 根本的にhomo-sexualit (同性愛)である。

 しかしこれは自体愛的ではない。
 自体愛はむしろ人格の〈対他〉(pour l'autre)的関係を打ち立てる。
 それは他者との人格的関係である以上、
 その人がどのような属性をもとうと一切感知することなく、
 すなわちその存在を問わずに生じる。

 自同律の棄却、つまり自己同一性の放棄なくして、
 対面の関係はありえないのである。
 〈autrement qu'étre〉つまり
 存在するのとは別の仕方で思考は主体化するが、
 それは自己同一性なしであること、
 自己同一性からの自由、存在からの自由、国家からの自由であり、
 個人の人格の絶対的独立性(indépendnce)を意味する。
 つまりこれはアナーキズムである。

 瞬間を自己自身から切り離すことをとおして自己は自分化する。

 この〈自分化〉という語を通して理解される
 〈自分〉という語は特筆すべき概念の良い名称となる。
 この〈自分〉こそ人格的主体である。そして出発点である。

 シュティルナーの『唯一者とその所有』
 (Der Einzige und sein Eigentum 1845)の問題が立ち戻ってきている。
 彼はあの下らぬ有名なキルケゴールよりも
 遥かに重要なヘーゲル批判者である。

 ヘーゲルのシステムは人間を平均化し
 一般的な非人称性のなかに陥れてしまう。
 シュティルナーはこれに対して
 独裁的かつ創造的唯一者(Der Einzige)を立てる。
 唯一者は何者にもとらわれず、不服従な自我を所有するものを意味する。

 興味深いのは彼が自己中心の利己主義を
 自己にとらわれているものとして批判し、
 己れの立場と区別している点にある。

 自己同一性とは自己中心性、そして利己主義である。
 それは自同律に呪縛され、〈存在する〉という仕方を通して、
 レヴィナス風にいうなら質料的孤独に陥ることから生じる。
 シュティルナーの唯一者は〈存在者〉ではなくて〈所有者〉なのである。

 唯一者は一種の存在の外に立つ神である。
 唯一者が立脚するその定位は
 〈創造的虚無〉(sch pferisches Nichts)と呼ばれ、
 そこに立つ者は創造者と被造者(Sch pfer und Gesch pf)を兼ねる
 と考えられた。

 恐らくマルクスはこの偉大な思想を誤読してしまっている。
 シュティルナーの〈所有〉概念には
 ブルジョア的なところはどこにもありえない。
 唯一者は虚無の他に何も所有しないし、
 所有物を固執するべき財産とは少しも考えてはいない。

 このことはいつか検証する必要があるが、
 わたしは自分の予断に自信をもっている。

 マルクスがバカなのである。

 シュティルナーのいう〈創造〉を理解できず、
 〈生産〉とその〈手段〉などいう下等な概念にとらわれたがゆえに
 マルクス主義的共産主義は創造性というものをもちえず、
 失敗してしまったのである。
 むしろコミュニズムとは
 シュティルナー的な創造者のアナーキズムによってしかありえないのだ。
 そしてそれこそがマルクス主義的国家社会主義をも
 またブルジョワ資本主義をも同時に葬り去ることのできる
 唯一の革命思想なのである。

 ようするに資本主義も社会主義もヘーゲル的なのである。
 だから国家という装置から独立できないのである。

 この点に関して、あの偉大なマルクスには
 少しも尊敬すべきところも弁護すべきところもない。
 救いがたい大馬鹿者である。
 マルクスこそがブルジョワ的偏見を脱することができていないのである。
 何が唯物弁証法だ、このエコノミニックアニマルめが。
 そこには一番なくてはならないその〈物〉こそが抜け落ちている。
 つまりマルクスは〈物〉を所有していなかったのである。

 もっていたのは〈金〉であるに過ぎない。