Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 2-7 火龍の造り手

[承前]


 わたしは覚えている。あれ程愛した息子がいなくなったのに、父は穏やかにそれに耐えていた。
 そのとき冷たい人だと思ったのは娘自身が冷たい娘だったからだ。
 父は兄がいつかいなくなってしまうことをずっと予感していたのだろう。


 わたしの片目の父もまた不思議な雰囲気と力を持ったひとだった。
 あの暗い方の目でどんな悲しい未来も見通していたのではないだろうか。
 その娘が冷たい娘で、やがて親不孝にも自殺してしまうという宿命にあることも見抜いていたのではないか。そして定めというのは変えることができないということも。


 父は何もかも知っていて辛く耐えていたのかもしれない。
 娘の葬式のときも父は淡々としていた。
 打ちのめされてはいなかった。まるで予期していたように。
 こうしてわたしの父はとうとう独りぼっちになってしまった。


 父は大変な変わり者。偏屈というのではないけれど、世間の人達の喜怒哀楽の示し方とは非常にズレたところがある。誰も彼のことを理解していない。
 生前、母は父をとても悪く言い、あれは冷たい人なのだと、非常に小狡く分かりやすいイメージの型に押し込め、切り刻んで単純なマンガに変えてしまった。
 けれど、母には人物を描く画才が根本的に欠けていた。
 よく恥ずかしくもなくあんなことを言えたものだ。母には人を見る目がなかった。とても簡単なことなのに、母はそもそも人を見ていなかった。
 盲らのまま人を頭ごなしに決め付け、トゲトゲした才気を見せびらかしながら酷評する。
 そんなとき、子供心にも母はとても醜い人に見えた。
 大変華やかな美人で、華やかにチェロを弾き、華やかな拍手喝采のなかで彼女は終始高慢に生きた。


 でも、わたしには分かる。今の世の中で、クラシック音楽の豪華な演奏会に出掛けるようなご身分の人達は、本当の音楽も芸術も分からない高慢ちきな俗物ばかりだから、母のような醜い人の奏でる冷たくて意地悪な音を褒めそやすのだ。
 母は芸術家などではなかった。
 たとえ生前、世界的な音楽家として名を馳せていたとしても、あの人の作り上げる音の世界は狭隘で独りよがり、高度なテクニックを弄んで、真似のできない人を震え上がらせる残酷さと、耽美趣味の自惚れのつよい香水の匂いがプンプンしている。
 真壁家に生まれ、何不自由なく上流階級にどっぷり浸かり、成金のその父親の芸術のパトロンぶりたがる偽善のお先棒を担ぎ、評論家たちのお追従に守られて、いつも女王気取り。
 本当の芸術を求めたため、いつも口ばかり達者でその目がひどい乱視だということを隠しおおせている批評家たちに妨害され、苦労し続けた父のことを見下げていた。


 父は誇り高い人だった。せっかく真壁の縁者となったのに、その政治力を利用することを決してしなかった。芸術は貧しい人、苦しんでいる人のところに降りてゆくものでなければならないと信じていたのだ。
 父は心が片輪で教養のない人達のために、それでもそんな人達にこそ曇りのない感受性があると信じて、いつも馬鹿気たものを描いていた。批評家たちから嘲笑されたのはそのせいだった。
 その上、無教養な人達からも相手にしてもらえなかった。彼らには逆に父の描く絵が高尚すぎてみえたのだ。これが悲劇だった。
 今でこそ、父の名前を画壇で知らないものはいない。だが、わたしたちが幼かった頃はひどいものだった。母は父を自分の名誉を損なう汚点を見るような目で見ていた。


 父も若い頃には天才画家として華やかなデビューを飾った人だった。
 だから祖父がそれに目をつけ、利用しようとして母の結婚相手に選んだ。
 母もまた虚栄心を満足させるにはまたとない相手だった。
 純真な父は騙された。だがまた、母も祖父も騙されていた。
 父は期待に反して本物の芸術家だったのだ。
 世間から勝ち得ていた高い評価に疑問を抱き、新しい境地を開こうとして、直ぐに地位も名声もなげうってしまった。画商にも評論家にも見捨てられ、やがて妻にも見捨てられた。


 認めてくれたのは高野山の怪しげなお坊さんたちだけ。
 タロットカードを作らないかと持ちかけられて、お金にもならない仕事のために、沢山の訳の分からない本を買い込み、大勢の怪しげな人達と交わり、やがて絵筆を握るのも忘れて、頭を抱えるようになった父を、母は冷ややかな目で見ていた。
 ダリは有名な一流画家だったからタロットを作ってもそれが売れた。
 タロットの絵なんかを描いてから有名になった画家なんて聞いたことがない、と母は父を冷笑していた。父は憮然とそれを聞いているだけだった。


 でも、それが結局はよかったのだと思う。
 画壇にぐうの音も出ない程の報復の打撃を浴びせ、父を逆転大勝利の画壇の帝王にしてくれた《天龍》《海龍》《地龍》の三作は、まだ描いていない最後の大作《火龍》をもって完成する、西洋の四大エレメントを表そうとした壮大な四部作の一部。
 それは父のはた目には馬鹿みたいにみえたタロットカードとオカルティズムへの真剣な探求から生まれたのだ。


 父のところへよく訪ねてきたとても体の大きな不思議なお坊さんのことを覚えている。
 青い目をしたその人のことを母はとても嫌っていたが、わたしたちは好きだった。


 落ち込んでいる父をいつも励まし、まだその頃は生きていた真理姉さんや稔兄さんやわたしと一緒に遊んでくれた。お姉さんが死んだとき、身内でもないのに、そしてお坊さんの癖に、お葬式でおいおい泣いてくれた。鬱病になってしまった父と自閉症になって石のように黙り込んでしまった兄を庇って、彼らを冷たく見放そうとしていた母を思い留まらせようと一生懸命だったアレックス=鳳来さん。
 暖かい大きな手をしていた。その手は、父の手よりも優美だった。


 父は画家とは思えない程無骨な指をした人で、手だけ見たら労働者にみえる。
 それは父の飾らない真面目で実直な性格を表していた。
 小さい頃、その大きな手は何だか怖かった。黒い眼帯をした顔も薄気味悪かった。


 だが、あの兄の失踪事件の報を受け、娘がダイモスの寄宿学校から慌ただしく一時帰宅したとき、娘――いや、寧ろこのわたしを抱いてくれたその手はとても暖かく優しいものだと分かった。
 年老いた父の顔をわたしはそのとき本当に間近から初めて見たように思う。


 その目は兄の目よりも綺麗だった。父は本当に画家だったのだ。
 人の心の深い所まで見透かしながら黙ってすべてを許してくれる瞳。
 父がわたしを見たとき、彼の身中に広がる不思議な宇宙の闇にすうっと吸い込まれそうな気がしたものだ。


 その瞳の底には確かに痛みがあった。
 羽田空港のロビーで長年遠く離れ離れに暮らしてきた娘を迎えようとして、わたしを認め、腰を上げ、名を呼ぼうとしたその時、娘の顔に何を読み取ったのだろう、和みかけた表情全体に一瞬急ブレーキをかけ、中腰の姿勢のまま、父は凍りついていた。


 開かれた口は音声を発さないまま再び苦しげに閉ざされる。
 娘もまた全身を僵らせ、メドゥーサがその犠牲者を凝視しながら、自らも石像と化すように、硬い視線で父を見ていた。


 もし彼が《有理》と呼ぶなら答えないつもりだった。


 無言のまま、娘は父を試みていたのだ。父はその苦い瞬間に耐えなければならなかった。
 噤んだ口と閉じたまなこが再び開かれ、静かな深い声が魔法の呪文を唱える。


 《真理》という神秘の名前、娘が待ち望んだその名前を父が口にしたとき、一瞬の気まずい沈黙が解凍され、時は戻った。


 娘の顔はそのとき喜びに輝いたのだろうか、わたしは覚えていない。
 覚えているのは、言い終えてなお、父の優しい顔に寂しげな蔭りがあったことだ。
 やっと手に入れた娘を再び失ってしまったというような表情がなおも暫く揺らめき、揺らめいては消えていったのを覚えている。