〈誰でもないはこの俺だ!〉というとき、
〈Nobody〉はその虚無の暗闇それ自身として
孤独で高貴な誕生の産声を上げている。
この出来事はエマニュエル・レヴィナスが
その著『実存から実存者へ』で
ややややこしく考察したイポスターズ(実詞化=位相転換)と
そっくりそのまま同じことを
より簡単明瞭なかたちでアッサリとなぞっているものに過ぎない。
しかし、レヴィナスのイポスターズ論にわたしは不満である。
レヴィナスの同著によるところを単純化して纏めれば、次のようになる。
〈存在しないことの不可能性〉つまり〈存在することの不可避性〉である
〈非人称〉の〈ある=イリヤ(il y a)〉は、
主体=主語なき実存=存在の絶対的支配として、
〈恐怖〉の暗闇として、不眠の意識にのしかかる。
それは誰もいない存在の原野であるばかりか、
誰もそこに存在できない、いや、させないというまでに
きつい絶望的な空間である。
そこから〈わたし〉という第一人称を
己れの名前として戴く最初の存在者(実存者)が
局所化された〈ここ〉を抱き締めて、
この不眠を中断して眠りに落ちることで、
その眠りのなかから生まれ出る。
つまり〈イリヤ〉という主語なき〈存在する〉という
純粋に動詞的な出来事が、その折り返しとして
〈わたし〉という〈存在者〉を
主語となることのできる実詞として生み出し、
〈存在者が存在する〉、
つまり〈わたし〉という主語(実詞)が所有する〈存在〉に
その位相を転換するというきわめてふしぎな運動が
〈イポスターズ〉と呼ばれ、物語られているのである。
だが、わたしに言わせれば、
そのイリヤの空虚な空間に出現することのできる最初の人間=主語は、
第一人称〈わたし〉ではなく、
端的にその〈誰もいない〉というその〈無〉、
無人称である〈Nobody〉である筈である。
〈非人称〉のイリヤは、
そこからレヴィナスの語るようなさんざんな難産の果てに
〈わたし〉が分娩されるより以前に、
既に〈無〉という最初の顔も名前もある実詞的で人間的な存在者を
真っ先にイポスターズしている。
〈わたし〉は寧ろイポスターズの第二子であって、
レヴィナスは無礼にも偉大なるわが兄〈Nobody〉君を廃嫡し、
その奇妙で特筆すべき先在をぼかしているのだ。
彼のフランス名は
俺こそ最初の人称的=人格的存在者だと言わんばかりに
〈Personne〉であるというのに!
勿論、〈Nobody〉君みたいに
〈別人〉ほどじゃないが得体の知れないぶきみな奴を
最初の人間として認めることはレヴィナスにとって非常にまずい。
だからそこのところはぼかして書いてある。
それでもその〈非人称〉の闇のなかに
〈Nobody〉君の小さな顔がキラッと光った一瞬だけは
隠し通すことはできなかった。
それは不眠の闇を引き裂く眠りの中断として現れる。
奇蹟みたいな話だ。
〈わたし〉という未だ実存せぬ実存者は
その小さな無のきらめく顔に飛びついて
やっとイポスターズすることができるのだ。
しかし、それは〈わたし〉が自分とは別人である筈の
〈Nobody〉君を自分自身と混同して
愚かな人違いをしてしまったためである。
だからこのイポスターズには中身がない。
それどころかこんなものをイポスターズだというのは
イカサマであると言いたい。
いつか機会があれば詳しく述べるが、
このイポスターズによって存在するようになるのは
〈わたし=自我〉ではなくて、
〈別人〉である〈Nobody=Personne〉、
つまり〈無〉であるに過ぎないのだ。
レヴィナスはイリヤ→イポスターズを論じることにおいて、
〈存在しないことの不可能性〉であるイリヤの暗黒から
〈むしろ無こそが存在する〉のだという
永遠の論敵ハイデガーの〈無〉の白夜を
結局ハイデガーよりもニヒリスティックな仕方で
引き出してしまっているだけなのである。
〈Nobody〉君の基本的人権を認めてやらぬ限り、
これは全く非人間的な存在論という他にない代物である。
また、認めてやったとしても、
〈わたし〉はまだ勘違いによって存在しているのに過ぎず、
イポスターズできた〈わたし〉とは
他ならぬ〈このわたし〉ではなく、
〈わたし〉になりすました〈無〉である〈別人〉に過ぎないのだ
と言わなければならない。
つまりそこで〈わたし〉だと言っているのは〈このわたし〉ではなく、
あの全てを駄目にし、当然存在することによって存在しなくなる怪人
〈Nobody〉君でないとどうして言うことができるのか。
〈Nobody〉君であっても〈わたし〉と言うことぐらいはできる。
言うや否や消えうせるとしても、
その〈わたし〉という主語=実詞は
〈このわたし〉という主体をではなくて、
跡形もなく消えうせてしまった〈Nobody〉君が
彼自身に言及して言ったものかもしれない。
彼の言い残した台詞の残響を聞いた〈このわたし〉が、
〈ああ『わたし』というのはこのわたしのことなんだな〉と錯覚して、
その上それを言ったつもりになっているにすぎないのではないのだと
誰が〈このわたし〉に証明してくれるというのだ。
この種の勘違いはイポスターズによるのではなくて、
寧ろそれとは正反対の
エクスターズ(脱自=恍惚)によるものでしかない。
エクスターズというのはまさに自分とは別人になることであり、
自分自身の自発性から発する
自己固有の存在を実は喪失し忘却してしまうことだからである。
わたしは別人である〈無〉に融合してしまっているに過ぎないのだ。
問題は実は極めて単純なのである。
実詞である主語が表示する主体〈わたし〉と
現実に存在する行為の主体である〈他ならぬこのわたし〉が
同一人物であって別人ではないという保証など何もないということなのだ。
『わたし』という主語は一般的なものであって、
それは〈Nobody〉君も含めて誰のことであってもいいのである。
それがある特定の単独的な現実的存在である〈他ならぬこのわたし〉、
誰でもいいわけでは決してない〈このわたし〉のことだ
と言うためには何かがまだ足りないのである。
確かに〈このわたし〉は事実として存在している。
だからイポスターズはきっと現実にあったのだろう。
そして、動詞が実詞化されることによって
一般的主語の〈わたし〉が生じるというようなイポスターズも
論理的にはあったのだろう。
そのそれぞれに異を唱えるつもりは全くない。
だがそれは単にパラレルであるとしかいえない。
レヴィナス自身も類推(アナロジー)だと断ってはいるのだ。
だがこのパラレル=平行線が交わる場処が見つからぬ限り、
それはいつまでもそうだその通りだったといえる安堵を
与えるものではない。
そのために無限の宇宙の果てにまで遠大な思考実験の旅に出掛ける埴谷雄高のように根性のある奴もいるかもしれない。
稲垣足穂みたいにその辺をうろつきまわってリーマン空間だのロバチェフスキー空間だのといったわけのわからぬ非ユークリッド幾何学を弄んで宇宙の方を妙な魔術でぐにゃぐにゃにし、より話をややこしくするクレイジーな奴もいるかもしれない。
宮沢賢治みたいに銀河鉄道に乗ってみたはいいが、どこまでいっても自分自身に辿りつけない孤独に胸をしめつけられる奴もいる。何故ならレールは何処までいっても平行線でありつづけるに決まってるんだから。
他の奴はベケットみたいに道端に座ってゴドーのような当てにならない自分自身って奴が道の向こうからこっちにむかってやってくるのをいつまでも待っているのかもしれない。
こんなふうに、平行線の交点を求めようとして
色々な奴が色々な奇行を企むのは、
いつまでも
〈むしろわたしではなく無が存在するのではないか〉という
抽象的だがやけに生々しい悪夢のような、
永久に纏い付き脅かす自己についての不安な予感が消えないからなのだ。
存在の問いには答えがなく
永久にぶきみな気味悪さや居心地の悪さが消えないと
レヴィナス自身が白状しなければならないのはそのせいである。
だが、そのぶきみな気味悪さ、
つまりイリヤの非人称性である〈存在の悪〉を汲み取らない
他の陳腐で白痴的な存在論(たとえばヘーゲル)よりも
レヴィナスの存在論がいいのは、
その誠実な未完遂をそのままにしておき、
有害無益なおめでたい野蛮な結論を器用につけたりは決してしないと
いう点にある。
それは全くその通りだ。
存在が悪であるからには、存在論は悪の哲学になるしかなく、
それが善人づらや賢者づらで近づくとき、
必ず野蛮で暴力的な邪悪が偽善的かつ自己欺瞞的に肯定されて、
善意にみちた極悪人が正義のために人殺しをすることになるのだから。
つまり〈このわたし〉を
紛らわしい同名の別人である〈わたし一般〉などという
おめでたい鈍感な存在にするような
エンジェルダストの服用を断じて許さないことは
永久に倫理的に意味のあることなのである。
〈Nobody〉はその虚無の暗闇それ自身として
孤独で高貴な誕生の産声を上げている。
この出来事はエマニュエル・レヴィナスが
その著『実存から実存者へ』で
ややややこしく考察したイポスターズ(実詞化=位相転換)と
そっくりそのまま同じことを
より簡単明瞭なかたちでアッサリとなぞっているものに過ぎない。
しかし、レヴィナスのイポスターズ論にわたしは不満である。
レヴィナスの同著によるところを単純化して纏めれば、次のようになる。
〈存在しないことの不可能性〉つまり〈存在することの不可避性〉である
〈非人称〉の〈ある=イリヤ(il y a)〉は、
主体=主語なき実存=存在の絶対的支配として、
〈恐怖〉の暗闇として、不眠の意識にのしかかる。
それは誰もいない存在の原野であるばかりか、
誰もそこに存在できない、いや、させないというまでに
きつい絶望的な空間である。
そこから〈わたし〉という第一人称を
己れの名前として戴く最初の存在者(実存者)が
局所化された〈ここ〉を抱き締めて、
この不眠を中断して眠りに落ちることで、
その眠りのなかから生まれ出る。
つまり〈イリヤ〉という主語なき〈存在する〉という
純粋に動詞的な出来事が、その折り返しとして
〈わたし〉という〈存在者〉を
主語となることのできる実詞として生み出し、
〈存在者が存在する〉、
つまり〈わたし〉という主語(実詞)が所有する〈存在〉に
その位相を転換するというきわめてふしぎな運動が
〈イポスターズ〉と呼ばれ、物語られているのである。
だが、わたしに言わせれば、
そのイリヤの空虚な空間に出現することのできる最初の人間=主語は、
第一人称〈わたし〉ではなく、
端的にその〈誰もいない〉というその〈無〉、
無人称である〈Nobody〉である筈である。
〈非人称〉のイリヤは、
そこからレヴィナスの語るようなさんざんな難産の果てに
〈わたし〉が分娩されるより以前に、
既に〈無〉という最初の顔も名前もある実詞的で人間的な存在者を
真っ先にイポスターズしている。
〈わたし〉は寧ろイポスターズの第二子であって、
レヴィナスは無礼にも偉大なるわが兄〈Nobody〉君を廃嫡し、
その奇妙で特筆すべき先在をぼかしているのだ。
彼のフランス名は
俺こそ最初の人称的=人格的存在者だと言わんばかりに
〈Personne〉であるというのに!
勿論、〈Nobody〉君みたいに
〈別人〉ほどじゃないが得体の知れないぶきみな奴を
最初の人間として認めることはレヴィナスにとって非常にまずい。
だからそこのところはぼかして書いてある。
それでもその〈非人称〉の闇のなかに
〈Nobody〉君の小さな顔がキラッと光った一瞬だけは
隠し通すことはできなかった。
それは不眠の闇を引き裂く眠りの中断として現れる。
奇蹟みたいな話だ。
〈わたし〉という未だ実存せぬ実存者は
その小さな無のきらめく顔に飛びついて
やっとイポスターズすることができるのだ。
しかし、それは〈わたし〉が自分とは別人である筈の
〈Nobody〉君を自分自身と混同して
愚かな人違いをしてしまったためである。
だからこのイポスターズには中身がない。
それどころかこんなものをイポスターズだというのは
イカサマであると言いたい。
いつか機会があれば詳しく述べるが、
このイポスターズによって存在するようになるのは
〈わたし=自我〉ではなくて、
〈別人〉である〈Nobody=Personne〉、
つまり〈無〉であるに過ぎないのだ。
レヴィナスはイリヤ→イポスターズを論じることにおいて、
〈存在しないことの不可能性〉であるイリヤの暗黒から
〈むしろ無こそが存在する〉のだという
永遠の論敵ハイデガーの〈無〉の白夜を
結局ハイデガーよりもニヒリスティックな仕方で
引き出してしまっているだけなのである。
〈Nobody〉君の基本的人権を認めてやらぬ限り、
これは全く非人間的な存在論という他にない代物である。
また、認めてやったとしても、
〈わたし〉はまだ勘違いによって存在しているのに過ぎず、
イポスターズできた〈わたし〉とは
他ならぬ〈このわたし〉ではなく、
〈わたし〉になりすました〈無〉である〈別人〉に過ぎないのだ
と言わなければならない。
つまりそこで〈わたし〉だと言っているのは〈このわたし〉ではなく、
あの全てを駄目にし、当然存在することによって存在しなくなる怪人
〈Nobody〉君でないとどうして言うことができるのか。
〈Nobody〉君であっても〈わたし〉と言うことぐらいはできる。
言うや否や消えうせるとしても、
その〈わたし〉という主語=実詞は
〈このわたし〉という主体をではなくて、
跡形もなく消えうせてしまった〈Nobody〉君が
彼自身に言及して言ったものかもしれない。
彼の言い残した台詞の残響を聞いた〈このわたし〉が、
〈ああ『わたし』というのはこのわたしのことなんだな〉と錯覚して、
その上それを言ったつもりになっているにすぎないのではないのだと
誰が〈このわたし〉に証明してくれるというのだ。
この種の勘違いはイポスターズによるのではなくて、
寧ろそれとは正反対の
エクスターズ(脱自=恍惚)によるものでしかない。
エクスターズというのはまさに自分とは別人になることであり、
自分自身の自発性から発する
自己固有の存在を実は喪失し忘却してしまうことだからである。
わたしは別人である〈無〉に融合してしまっているに過ぎないのだ。
問題は実は極めて単純なのである。
実詞である主語が表示する主体〈わたし〉と
現実に存在する行為の主体である〈他ならぬこのわたし〉が
同一人物であって別人ではないという保証など何もないということなのだ。
『わたし』という主語は一般的なものであって、
それは〈Nobody〉君も含めて誰のことであってもいいのである。
それがある特定の単独的な現実的存在である〈他ならぬこのわたし〉、
誰でもいいわけでは決してない〈このわたし〉のことだ
と言うためには何かがまだ足りないのである。
確かに〈このわたし〉は事実として存在している。
だからイポスターズはきっと現実にあったのだろう。
そして、動詞が実詞化されることによって
一般的主語の〈わたし〉が生じるというようなイポスターズも
論理的にはあったのだろう。
そのそれぞれに異を唱えるつもりは全くない。
だがそれは単にパラレルであるとしかいえない。
レヴィナス自身も類推(アナロジー)だと断ってはいるのだ。
だがこのパラレル=平行線が交わる場処が見つからぬ限り、
それはいつまでもそうだその通りだったといえる安堵を
与えるものではない。
そのために無限の宇宙の果てにまで遠大な思考実験の旅に出掛ける埴谷雄高のように根性のある奴もいるかもしれない。
稲垣足穂みたいにその辺をうろつきまわってリーマン空間だのロバチェフスキー空間だのといったわけのわからぬ非ユークリッド幾何学を弄んで宇宙の方を妙な魔術でぐにゃぐにゃにし、より話をややこしくするクレイジーな奴もいるかもしれない。
宮沢賢治みたいに銀河鉄道に乗ってみたはいいが、どこまでいっても自分自身に辿りつけない孤独に胸をしめつけられる奴もいる。何故ならレールは何処までいっても平行線でありつづけるに決まってるんだから。
他の奴はベケットみたいに道端に座ってゴドーのような当てにならない自分自身って奴が道の向こうからこっちにむかってやってくるのをいつまでも待っているのかもしれない。
こんなふうに、平行線の交点を求めようとして
色々な奴が色々な奇行を企むのは、
いつまでも
〈むしろわたしではなく無が存在するのではないか〉という
抽象的だがやけに生々しい悪夢のような、
永久に纏い付き脅かす自己についての不安な予感が消えないからなのだ。
存在の問いには答えがなく
永久にぶきみな気味悪さや居心地の悪さが消えないと
レヴィナス自身が白状しなければならないのはそのせいである。
だが、そのぶきみな気味悪さ、
つまりイリヤの非人称性である〈存在の悪〉を汲み取らない
他の陳腐で白痴的な存在論(たとえばヘーゲル)よりも
レヴィナスの存在論がいいのは、
その誠実な未完遂をそのままにしておき、
有害無益なおめでたい野蛮な結論を器用につけたりは決してしないと
いう点にある。
それは全くその通りだ。
存在が悪であるからには、存在論は悪の哲学になるしかなく、
それが善人づらや賢者づらで近づくとき、
必ず野蛮で暴力的な邪悪が偽善的かつ自己欺瞞的に肯定されて、
善意にみちた極悪人が正義のために人殺しをすることになるのだから。
つまり〈このわたし〉を
紛らわしい同名の別人である〈わたし一般〉などという
おめでたい鈍感な存在にするような
エンジェルダストの服用を断じて許さないことは
永久に倫理的に意味のあることなのである。