〈あなたはまるで別人のよう。〉
〈彼女はそのとき別人のように見えた。〉

 わたしたちはふだん、何げなくまたさりげなくそのように言う。
 しかし、〈別人のよう〉というのは、一体どのようであるというのか。

 わたしたちはそれをそれ以上うまく言い表すことができない。
 このような戸惑いの不安な比喩表現に
 ちらりとその姿をかすめる〈別人〉という曖昧で謎めいた人物は、
 そのようにその名称を『別人』という風に
 はっきりと言及=参照されているというのに、
 その実体は模糊として正体不明に留まる。

 その足跡は、その『別人』という名前が告げられるや否や、
 いつもふっつりと途絶え去って、
 虚無の暗がりに跡形もなく行方不明となる。

 〈別人〉とは何者なのか、
 わたしたちはそれを知らず、
 知らぬ間にその通り過ぎるだけの空虚な人物を
 『別人』と呼ぶだけに甘んじている。

 しかしこのように曖昧な〈別人〉が
 逆に明瞭な事態をもたらす場合もあることをわたしたちは知っている。

 〈わたしと彼は別人だ〉
 〈A君とB君は顔が似ているけれども別人だ〉
 〈この二人は同姓同名だけれども別人だ〉
 というような場合である。

 この場合、二人の人物が
 明瞭に識別され判別されていることに注意してほしい。
 つまりそこには二人の人物が明瞭に存在していて、
 互いに相手のことを〈別人〉だと指さしあっているのである。

 このようにして〈別人〉は
 いつも異なる複数の人物の全員で同時にありながら、
 しかしそのうちの誰も結局のところ〈別人〉その人ではない
 という奇妙な事態にわたしたちは気がつく。

 〈別人〉は誰でもあって誰でもない。
 いつもそこにいるのにそこにはいない。
 この奇妙な矛盾のなかに
 〈別人〉はまたしてもその行方をくらましているのだ。

 勿論、〈別人〉なる人物など何処にもいるわけではないことを
 わたしたちは知っている。

 これは英語で〈Nobody〉と呼ばれ、
 フランス語で〈Personne〉と呼ばれる
 あのふしぎな人物の引き起こす、
 人を煙に巻く不愉快な事態にとてもよく似ている。

 文法書にはそう書いてはいないが、
 わたしは〈Nobody〉とか〈Personne〉とか呼ばれる
 この形式的な人称表現を〈無人称〉と名付けている。

 〈無人称〉は〈非人称〉と同じではない。

 〈非人称〉は
 三人称のありふれた代名詞〈彼〉とか〈それ〉にあたるものを転用して、
 雨が降ったり、物が在ったりという
 動詞的な出来事を告げようとするものである。
 人称の仮面の背後には誰もいないことをわたしたちは知っている。
 つまりそこには〈無人称〉である
 〈Nobody〉や〈Personne〉が立っているだけなのだ。

 〈無人称〉はこのように〈非人称〉の背後にあって、
 〈非人称〉によって決して代理されていない何者かなのである。

 〈非人称〉の仮面を剥ぎ取って
 背後にいると期待された〈誰か〉に会いに行ったわたしたちの前に、
 飄々とした〈無人称〉が現れて、
 「生憎だったな、ここには(俺の外に)誰もいやしないぜ。他を当たりな」
 と教えてくれるさまを想像してみて欲しい。

 そのとき〈無人称〉君は親切にも、
 捜しものはあっちにあるぜと〈動詞〉の方を指さしてくれる筈だ。
 さもなければ、肩をすくめて
 「さあな、とにかくそいつは俺の仕業じゃないことだけは確かだ」
 と請け合い、
 きっとそれは姿をすっかりくらませている
 あの得体の知れない〈存在〉って奴がやりやがったのだろう
 と言うことだろう。

 わたしたちはいずれにせよ〈無人称〉君の言うことには同意するしかない。

 とにかくそのやることなすことを
 台無しにする以外のことは積極的には何もせず、
 誰もやらないことだけを常に何でもやりのけてしまう
 奇妙な万能選手が〈無人称〉の人柄だ
 ということをわたしたちはよく知っているからである。

 そこでわたしたちは〈判断〉する。
 〈無人称〉と〈非人称〉はやっぱり〈別人〉なのだということを。

 〈無〉と〈存在〉は両者を擬人的にいうなら、〈別人〉なのだ。

 このことから〈誰もいない〉〈誰もしない〉という
 明確な〈常に否定する霊〉であるところの〈Nobody〉君と
 相変わらず得体の知れない〈別人〉君は別人であることがわかる。

 つまり端的にいって〈Nobody〉は〈別人〉ではないのだ。

 〈別人〉とは〈誰でもない誰か〉であり、〈いつも誰か他の人〉である。
 それは永久に不定の〈誰か〉、
 問いかけても永久に背を向けて振り向かず
 〈誰か〉の問いを永久に宙ぶらりんに
 虚しく浮かせておくままにさせておく〈誰か〉である。

 このような〈別人〉は、
 〈無人称〉〈非人称〉に対して〈不人称〉的であるといえるだろう。

 わたしが〈別人がそれをする〉
 つまり〈それをするのは別人だ〉というとき、
 何はともあれ、動作行為の主体が誰かは分からないが、
 とにかく〈それはされる〉のだ。
 動作行為はとりあえずその遂行を妨げられる訳ではない。

 これは〈Nobody〉と〈別人〉との決定的な違いである。

 同じ仕事を〈別人〉に任せるなら、
 現実的な結果はどうあれ、
 少なくともそれを任せた時点では仕事がなされるだろう
 ということは期待されている。
 単にわたしがそれをしないというだけだ。
 誰か他の人がそれを代わりにやってくれることまでは
 わたしは否定していない。

 しかしもしわたしが同じ仕事を〈Nobody〉なんかに任せてみたまえ。
 絶対に誰もそれをしないということははじめから目に見えている。

 ところで、〈Nobody〉は
 このときわたしとそっくりであることに注意して欲しい。
 わたしがやらないことは、
 わたしの別人である架空の人物〈Nobody〉がするのだが、
 つまりそれは結局現実的には全くなされない。

 現実的にはわたしはその律義な無責任性において
 〈Nobody〉と同一人物なのである。

 現実的にはわたしも〈Nobody〉も動作行為を否定する人間なのである。

 動作行為を明確に否定する人間であることにおいて、
 わたしも〈Nobody〉も期待のできない人物であるが、
 逆説的な言い方にはなるが信用のおける責任感のある人物である。

 これに比べて〈ああいいよ、やってやるよ〉と
 安請け合いをするように依頼された動作行為を引き受けながら、
 結局そいつは誰だったのかも
 いつになったらやってくれるのかも分からぬまま、
 依頼人を不安のなかに置き去りにする不定の〈別人〉は、
 妙な期待をかけさせる分だけ
 信用も油断も隙もあったものではない曲者なのである。

 彼は決して自分では仕事をしないで〈誰か〉の襟首をつかまえて、
 おい、これをやりなと命令し、
 そしてその結果を自分の手柄にすることを企むような
 けしからん責任感のない日本的な余りに日本的な奴である。

 それも何処かの馬の骨にでも頼んでくれればまだいい。
 こいつには日本人らしく人を見る目というものがないので、
 〈誰か〉の中でも一番悪い〈誰か〉である〈Nobody〉君の肩を叩いて
 じゃあね頼んだよと言ってそのままどこかへ消えてしまう。
 すると依頼人は可哀想にいつまでも待ちぼうけを食わされる
 という最悪の事態にもなりかねないのだ。

 〈別人〉君はいつまでたっても
 〈まあだだよ、まあだだよ〉と
 隠れんぼみたいなことをいうだけだし、
 おい、一体〈別人〉だというおまえは誰なんだと問い詰めても、
  〈いやあ、いったい僕って誰なんでしょうねえ、
   自分でもよく分かんないんですよ〉
 と得体の知れないぶきみなことを言ってへらへら笑っているだけだ。

 その憎たらしい顔が
 つるつるの〈のっぺらぼう〉であることはいうまでもない。
 それでどんな奴にでも化けるのだ。
 一体誰になるものか知れたものではない。

 ところで仕事の依頼人はわたしが誰か、
 そして〈Nobody〉が誰かをも明確に知っている。

 〈Nobody〉というのは実に具体的な誰かのことなのである。
 彼はその〈誰でもない〉という明確な唯一絶対性において、
 絶対にいないということがはっきりしているということにおいて、
 他ならぬこの人〈Nobody〉氏以外の何者でもないといえる。

 わたしは大真面目にこのことを考えている。

 冗談ではなく、〈Nobody〉は
 立派に単独性と人格性を備えた個人であり、
 或る一人の人間存在なのだ。
 これは冗談だが、さすが英国紳士、
 身元のはっきりしたひとかどの人物である。

 〈Nobody〉とは
 不確定な〈誰でもない誰か〉である〈別人〉から
 真っ先に出てくる最初の、そして最も誠実な人間なのである。

 彼は〈俺こそその誰でもない誰かだ〉と、
 誰何の問いの広げる不安で虚ろな暗闇のなかで最初に振り返って、
 その見紛えようもない大宇宙で唯一の
 明瞭この上もない顔を顕現させる唯一無二の人物なのだと言ってよい。

 その顔は〈無〉であり、その存在は〈無〉であり、
 その名前は永久に彼以外の誰も名乗ることができず、
 彼だけを意味する絶対的な固有名〈Nobody〉なのだ。

 〈Nobody〉はこの意味において人称代名詞ではなく固有名詞である。
 〈無人称〉とは人名なのだ。
 その名〈Nobody〉の元には彼以外の誰も永遠に召喚されることはない。

 絶対に存在しないものの存在である〈無〉こそ
 間違いなく永遠に存在する唯一の単独の存在者である
 ということをわたしたちは否定しようもない。

 〈別人〉ほど訳のわからない奴はいないが、
 〈Nobody〉ほどはっきりした人間は存在しないのだ。

 〈Nobody〉が誰であるのかをわたしたちは誰でも明瞭に知っている。
 これほどそれが〈誰か〉が確定してしまっている人物は他にいない。
 彼はありとあらゆる主体と絶対的に別人であることができる唯一の人物である。
 或る意味においては彼こそが
 ついには〈別人〉その人になりうる唯一の人間である。

 一見、前に出した結論とは逆のようであるが、
 実はこのことにこそ重大な意味がある。

 〈Nobody〉は〈誰でもない〉が
 そのまま一番明瞭な〈誰か〉になる
 驚くべき出来事そのものなのだ。

 それは直ちに一個の強靭な人格を、
 名前をもった最初の存在者を、
 〈誰でもない〉という誰もいない空虚な空間に
 一瞬にして結晶させてしまう。