【1】〈虚無〉の概念について、それをプラトンやパルメニデスの考えたような〈非在〉(me on)と同一視することは誤りである。

【2】〈非在〉は〈存在〉の対立者であって、論理及びそれを原理とする思考が、感覚の欺瞞とか虚偽の根拠として斥けつつも結局は必要としてしまうものである。
 このような〈非在〉は存在することができないが、実は他面において、存在しないこともできないという二重の不可能性に挟まれた不可能存在であるといえる。
 しかし、実は、すでにわれわれが見てきたように、〈非在〉が存在することができないというときの〈存在〉と、逆に存在しないことができないというときの〈存在〉とは、その〈存在〉の意味が違っている。
 すなわち〈非在〉はそれこそが実は実在するが故に存在しないことができないが、思考はその事実を認めることができないが故に、それは存在することができないのである。
 つまり結局、〈非在〉とはむしろそれこそが存在するからこそ、存在してはならないものを意味しているのである。

【3】これに対して〈虚無〉とは、実にそれこそが可能性の始まりであり、最初の可能者である。〈非在〉が不可能性自体であったのに対し、〈虚無〉は逆に可能性自体であるのだといえるだろう。
 〈虚無〉とはまさにそれなくしては可能性自体がありえないという意味において、全く必然的に可能性自体であり、可能性そのものの可能性の中心なのである。
 それは必然的可能者であり、あらゆる可能性の起源に存在しなければならないものである。
 つまり全く〈非在〉とは逆に、〈虚無〉はたとえそれが事実において全く存在しなくとも、存在しなければならないが故に存在するものである。
 そして、それは〈存在〉が存在する以前に、〈存在〉に先行して存在したもの、存在したのでなければならないものである。
 しかし、〈虚無〉が存在したとき、〈存在〉は未だ決して存在することができない。
 そして、われわれの考察も、未だ〈存在〉の誕生の瞬間を目撃してはいない。
 現在われわれはようやく、〈存在〉に先行する原存在としての〈虚無〉の誕生を見出しただけである。
 この〈虚無〉は、ヘーゲルが〈純粋存在(reines Sein)〉と呼んだ、存在すると同時に存在しないことも可能であるような絶対的存在に近いものである。つまりそれは存在しなくとも存在することができる。ということは実は〈虚無〉こそが純粋な存在可能性なのである。そしてそれは永遠に存在可能性でしかありえないが、実はだからこそ、無という全く独異な存在様態において、無いからこそその無において、まさにそれこそが存在し、その存在を、思考はもはや決して無くすことはできないのである。まさに無は、いたるところにあらぬが故に、いたるところにあって有り得るものである。それこそが、無の壷、無の観念のツボであり、その思う壺の要諦である。下手に覗けば破滅の災いをもたらす恐るべきパンドラの壷の底に眠っている神秘であり、その永遠に欠くべからざる希望なのである。

【4】〈虚無〉は〈不在〉を深淵化しながら己れの内に引きずり込む。それは或る意味では変換された〈不在〉そのものである。〈不在〉は〈虚無〉に転生して、或る種の最初の人、最初の人格となる。これを〈無人称〉と名付ける。

【5】無人称は非人称とは別人である。われわれはこの無人称を〈誰も~ない〉という人格表現によって明確に知っている。無人称は人格的存在であり、〈しない〉という最初の絶対的行為を引き受けるものである。非人称においては単に出来事が出来し、何かが起きているだけである。その起きている出来事は、おそらくわたしに出来してきているのだが、もちろん、わたしは未だわたしを見出してはいない。わたしはまだ存在せず、まず、無が、無人としてある。出来事はまず無人に起きる。無人に起きて、無人を起こす。起きた無人は出来事の内に出来するものの、その出来事を行わない。すなわちそれを〈しない〉という最初の行為を行うことによって、出来事のうちから身を切り離す。こうしてようやく出来事から分離した最初の主体が誕生するのである。だがそれはまだわたしではなく、無人が全くひっそりと、〈しない〉のうちに先に起きるのである。このようにして、〈夢〉は終わる。

【6】この無人称はゼロ人称といってもよいものである。数字の0が1に先立つように、無人称は第一人称の〈わたし〉に先立つ主語的存在である。
 この人物をわれわれはよく知っている。わが国では〈天邪鬼〉の愛称で呼ばれているが、英語でその名を呼ぶ方が一層分かりやすい。この非常に注目に値する人物(very notable person)は、〈Nobody〉である。
 敢えてこれを〈無体〉と直訳することにしたい。われわれは後に〈実体〉と、それに根源的に矛盾するところのものとして埴谷雄高が提起した概念である〈虚体〉とこの〈無体〉とを対照することになるはずだからである。更に、〈実体〉・〈無体〉・〈虚体〉に並んで、〈別体〉という第四の怪物をもわたしは名指しておくことにしたい。
 〈別体〉とは、さかしまの〈第三の人間〉、すなわち〈第三の人間〉の存在不可能性から直接出て来るその無気味な影法師、〈第四の人間〉ともいうべきパラドクサルな存在である〈別人〉の存在様式を意味する。
 この〈別体〉である〈別人〉はむしろ〈不人称〉的である。