「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」
 (ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』七)という
 法律の条文も時と場合によって、その用法は善し悪しである。

 常に法律が悪法に変わるのは適用が間違われ、
 それが濫用されるときである。

 それは立法者の精神に違う邪曲なものが
 その法律を簒奪して詐欺紛いの悪徳商法に役立てて意味を歪め、
 手飼いの思想警察を動員して、
 罪もない、ただ自分の悪徳をその無邪気さによって暴きかねない
 都合の悪い人を逮捕することに役立てる場合である。

 その都合の悪い人というのは
 「王様は裸だ」と、
 ただあるがまま見たがままを素直に自分の言葉で口にし、
 その自分の生の言葉をその裸体性のままに呈示するような
 〈童心〉のことである。

 そのような〈童心〉は己れの、裸の言葉・裸の心を、
 大人のように嘘の衣装で飾らぬままに口にするものである。

 〈童心〉の語る言葉は無条件に信じられる。
 それは〈童心〉が可愛い子供の顔をしているからではない。

 〈童心〉が厳しく心から嘘を嫌い、
 欺かれることを憎む正義の心であり、
 また、決して欺かれることのありえない純粋理性の動物であるからである。

 〈童心〉は己れが無知であることに無知である。
 だからこそその知性は歪められておらず、
 まっすぐに物自体の本質に透徹して、
 現象という名のみにくい嘘を根底から曝露する
 黙示録的出来事を起こすのである。

 黙示録的出来事というのはもののあわれを知るということだ。
 それは嘘つきどもの言の葉のおかしさに対する全き答えの出現である。

 「語り得ぬものは示され得る」のではなく、
 「語り得ぬものはそのようにして示される」のである。

 それは黙示録的出来事として、
 すなわち最後の審判として出来するのである。

 純粋理性の神通力は絶対精神の超能力よりも強大である。

 超能力はいまだ可能なもの、
 大いにありそうなものであるに過ぎないが、
 神通力は奇蹟を起こす神の力の発現であり、
 それは全くありえない出来事を爆発させる、
 超新星爆発的・原爆投下的な、
 誰も決してそれに抗うことの出来ない
 不可能力(不可抗力)であるからである。