Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 4-3 オフィーリアとオルフェウス

[承前]


 覚えている、そのときのことを。今も、まざまざと。


 娘は必死にそこから駆け出し、脇目も振らず、恐怖に泣きわめきながら大人たちを呼びにゆく。
 兄さんを池の滸に置いたままにして。


 大人たちを連れて戻ってくる娘の鼓動、駆足、息切れ。視界は激しく揺さぶられる。


 お姉ちゃん、お姉ちゃん、お姉ちゃん! 


 だが、揺れる視界は絶望的にそれを発見する――しん、として動かない水面。
 木偶のように動かない兄の呆然とした姿。


 兄の不思議な力はどこにいった? 
 どうしてこのときばかりは兄さんは姉の真理を助けられなかった? 
 どうして、どうして、どうして! 


 昔、転落した電車から父と姉を救い出した兄さん。
 盲目であっても、小さな子供であっても、兄は目の見えるどんな大人たちより頼もしい人だったのに。それなのに兄さんは姉をこのとき見殺しにしたのだ。


 娘はそう思った。これが憎しみの、恨みのはじまりだった。


 やがて、このことが理由で、父母は諍いを起こし、離婚した。
 娘は母に引き取られ、姉の真理を溺愛していた母に名前を付け替えられた。


 おまえは真理だ、おまえは真理の分までしっかりと生きて頂戴。


 母は娘を掴み、何だか狂ったような恐ろしい厳かな目で顔の真ん中を見据えて言う。
 呪文をかけるように。洗脳するかのように。


 この母のことを娘は余り好きではなかったが、姉の真理への母の狂おしい思いと、真理を見殺しにしたあの元々薄気味の悪い化物の息子への憎悪が余りに激しく、余りにも繰り返し繰り返し小さな彼女の上にぶちまけられ続けたため、娘も母の毒念に黒く染まった。


 繰り返し繰り返し彼女はその黒い水面を思い浮かべ、水に沈んだ美少女と彼女を突き落として溺死させた悪魔の少年の妄想を上映し続けた。


 時と共に娘が成長してゆくにつれ、この夢のなかの二人の像も誇張され肉付きを深め、異様な幻想へと成長してゆく。
 それと同時に年齢の方も成長してゆく。
 水の滸から動かない男の子も次第に背丈が伸び、体つきも大人びて青年の姿に近づき、水のなかに眠る白髪のちいさな娘もまた次第に美しくその死のなかで生き生きと育っていった。


 やがて娘は姉の像を水死するオフィーリアの形象に重ね、どんな画家も未だ描いたことのない程に美しい女性美の理想の姿へと、その神秘な水の揺籃のうちわに大切に大切に守られた眠り姫は不思議な変容を遂げていった。


 まるで死のなかに安らかで素晴らしい永遠の命があるかのように。


  *  *  *


 ――AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA……。
 叫びは水の弦を震わせて、死者の復活にまつわる不安な楽の音を奏でる。


 だが、この楽の音はどこからきたか? 
 水の弦を奏でる奏者の手が、暗い水の面を吹くかたちない風と霧のあわいから浮かび上がる。


 泉全体を黒く覆い隠していた闇の曇りが晴れてゆくにつれて、その手がゆっくりと蘇ってくる。
 手はヴァイオリンの弓をもち、奏者は水の滸に立つ。
 かたく目を閉じて、湖水に沈む死美人を一心に思い浮かべ、全霊を傾けてヴァイオリンを弾く。


 その思い浮かべる力と楽の音の魔法によって、水鏡に幻の人の姿を呼び出しているのは彼。
 彼のそのひたむきな業こそが、オフィーリアの重い肉体を支え、その場に繋ぎ留めていたのだ。
 さもなければ忽ち、忘却〔レテ〕の河の流れに奪われ、冥界〔エレボス〕の闇に消えうせてしまうに違いないその儚い姿を命懸けで護り、必死に保ってきた泉の番人〔ケルビム〕。
 わたしと娘の神聖な園の守護者。それは、わたしの兄さんだ。


 智天使〔ケルビム〕――エデンの園の生命の樹を守る者。
 エデンとは純潔、無原罪の者だけに立ち入りの許される幻の国。


 ダイモスの女学園、宗教の授業、ノビーナの日にシスターが語った聖母マリアの無原罪の御宿りの講話。聖寵満ち盈てる童貞聖マリアは、人祖アダムから受け継がれたあらゆる罪を神の恩寵によって免れて生まれ、無垢のまま御子イエスを産み、死をうけることなく昇天されたのだという。


 わたしは思う、昇天したマリアを智天使は彼の秘密の花園に迎え入れ、神聖な生命の樹の木蔭に憩わせ、そしてこの乙女の純潔を永遠に守り続ける城となったのだ、と。