出来事は出来する――というより、
 それは何処からか出て来る。

 出来事(event)とは出て来る事である。
 それが人から出て来ると看做される場合、出来事はその人に帰属する。
 人から出て来る出来事を
 わたしたちは「行為」(action, deed)と呼んでそう看做す。
 そこで、行為は行為者(agent)に帰属せられた出来事であるといえる。

 しかし一方、現実に具体的な行為者に出来事が帰属されていなくとも、
 或る出来事が行為であるかそうでないかは
 社会的経験的な現実原則によってほぼ予め決定されている。

 経験的に行為であることが確定している多くの出来事がある。
 そして、行為であるからには、それは何らかの行為者に帰属させねばならない。

 多くの場合、行為者は行為と共に発見されるといえる。
 例えば、人が走るという出来事は、
 〈走る人〉という行為者と切り離すことが出来ないし、
 それは直ちにその行為者に帰属する〈走る〉という
 動詞的行為であると看做される。

 しかし、行為者が発見されない出来事もある。
 犯罪の場合がそれで、例えば、
 物が盗まれる、人が殺されるという出来事がある。
 それはただ物が消えるとか、人が単に死んでいるとか
 いうのとは様相を異にしている。
 自然にそんなことが起こることはありえない(不可能である)ような様相で、
 物が無くなり、人が変死する。
 まさに誰か行為者の行為によるもの
 という以外にありえない出来事が、
 最初に、まず「結果」として目撃されるのである。

 この場合、
 それを帰属させるための行為者(犯人)が
 現実的には発見されておらず、
 また従って、行為者への帰属が
 現実的に行われていないにもかかわらず、
 既にその出来事は行為なのである。

 さもなければ、
 それを単なる出来事と看做さねばならないが、
 それは社会的経験的な現実原則に矛盾違反する、
 つまりそのようなことはありえない(不可能・不自然の様相にある)からである。

 「さもなければありえない」が故に行為者の存在は必然的に要請される。
 行為者はまだ発見されていないという意味で、
 われわれにとって現実的存在者ではない。
 しかし、必然的存在者である。
 必然的存在者であるが故に、それは現実的に存在したのでなければならない。

 それは現在はわれわれにとって存在していない(発見されていない)が、
 過去には存在していた筈であり、
 それ故にまた未来においてその過去は発見されねばならない。
 つまりわれわれは犯人を捜さなければならないのである。

 「さもなければありえない」とは、しかし、どういうことか。
 人が変死している。物が消え失せている。それは現実である。
 もし行為者が存在しないとすれば、
 そこにはありえない現実があることになってしまう。

 死体は実在し、物の紛失(不在)も実在する現実的な事実である。
 しかしもしそれをそのままにするとすれば、
 それは実在不可能な実在、
 すなわち非在が実在するという「有り得べからざる出来事」の
 全く無気味な純粋出来を認めることになってしまう。

 不可能性の直接的現実化をわれわれの知性は認識しない。
 それはまさにそれを許容し容認するわけにはいかないからである。
 出来事が出来事であるがままに出来しているとは、
 つまりそのような無気味な不可能性の様相の
 現実世界への侵蝕的な露呈なのである。

 ありえないもの(不可能なもの)は在ってはならない。
 しかし、目を撃つ死体や物の不在に無くなってくれというわけにもいかない。
 だから、実在する不可能存在である非在を、
 非在でなくする必要性がわれわれに生じる。
 行為者の仮定はこの必要性を満たす。
 つまり、行為者の存在は、必要であるが故に必然的なのである。

 もし行為者が存在したとすれば、
 眼前の現実・実在から
 不可能・非在という忌避すべき様相を取り去ることが出来る。
 それはありうる現実となる。
 つまり可能・存在という様相を纏わせることが出来る。

 「さもなければありえない」とは、しかし、再び、どういうことか。
 さもなければわれわれは現実を理解できなくなってしまうということである。
 われわれは現実を理解可能にしなければならない。
 現実は理解可能で思考可能なものでなければならない。
 現実はありうるものでなければならない。
 単に存在するのではなく、存在するにはまずそれは
 必然的に存在可能でなければならない、
 さもなければ存在してはいけないのである。

 存在は存在する以前に存在可能でなければらない。
 存在可能な存在だけが存在しなければならない。
 存在不可能な存在である非在は存在してはならない。
 それはわれわれの思考能力(思考可能性)を破壊することだからである。

 われわれの思考能力は不可能性(ありえない)を許容することができない。
 われわれは不可能性を避けねばならない。
 それ故に〈さもなければ〉によって、必然性へと脱出しなければならない。

 われわれには可能性こそが必然的なのである。
 不可能性は決して必然的ではありえない。

 だが、それはわれわれのためにこそそうなのであって、
 そのあるがままの現実において
 そのままそうであるのだという権利を
 実はわれわれは全く持っていないのである。

 ただわれわれはそれを認めたくないだけなのだ。