〈恩〉とはパルメニデスがギリシア語でONといった
 中性的な〈存在〉の観念をむしろ意味するものである。

 パルメニデスはこれを神とはしていない。
 これを神にしようとしたのはソクラテス及びその弟子のプラトンである。

 プラトニズム=アカデミズムは現実世界の上に
 (=〔英〕on:「接触して上に乗せる」という意味の前置詞)
 如何にして一般的・観念的な存在のオンを着せて
 それを支配するかを探究する思想傾向である。

 一般的・観念的な存在のオンとは
 スコラ哲学的な概念でいうなら、
 類と種(種差)にもとづく体系的な定義であるが、
 それは裏を返せば
 それを教えてやった先生(教師)の恩(有難み)ということになる。
 つまりプラトニズムは
 教育機関(学校システム)による知の支配の問題と切り離せない。

 プラトン自身は自己批判的な対話篇『パルメニデス』において
 ONという存在の存在〔ぞんざい(夏目漱石の宛字)〕なイデアを
 感覚的な現実世界の範型(造物主)と看做すことを放棄している。
 『パルメニデス』はプラトン自身の手になるプラトニズム批判の書である。

 この対話篇には何故かアリストテレスと同名の人物が登場し、
 さんざんに若きソクラテスのイデア論を論破した
 エレアの老賢人パルメニデスから直接教えを受けているのだが、
 ちょうどこの対話篇が書かれた頃に
 十七歳のアリストテレス少年はアカデメイア学園に入学している。
 後にアリストテレスは『形而上学』で
 イデア的真実在(類・種の観念)が
 個別的実体(個体)に先行する本質として実在し、
 後者は前者の模写であるというプラトニズムの存在論を批判しているが、
 その際に彼が用いるのは
 『パルメニデス』において老パルメニデスが
 イデア論を批判するのに用いたのと全く同じ
 「第三の人間」(ho tritos anthropos)のパラドクス(註1)である。

 パルメニデスは中性的・観念的なON(存在)を仮定する立場から、
 アリストテレスは感性的・現実的な個体としての
 〈実体=ウーシア(ousia)〉こそが存在するという立場から、
 共に、観念的なONから現実的実体ウーシア(個体)を
 作り出すことはできないということをいっている。

 「第三の人間」とは、
 イデア的人間(観念)でもなく、
 現実的人間(個体)でもない人間のことで、
 今日的な言葉でいうなら両者を媒介する媒概念にあたるものである。

 プラトニズムはイデアと個物の間に、
 分有(分割)・参与(帰属)・模写(類似)などの関係式を立てるが
 これはいずれも同工異曲である。
 
 仮に模写説を例に取れば、
 「第三の人間」は次のような媒介の無限背進のパラドクスとして説明される。

 もしイデア論者の言うように或るイデアたとえば「人間それ自体」(というイデア)のほかにその同じ名前で人間と呼ばれる個々の人間が存在し、そしてこれらが人間として存在するのはこれらが「人間それ自体」に似ているからであるとすれば、この両者(イデアなる人間と個々の人間)の似ていることを決定する尺度または両者を似させる媒介者として、これら両者に共通に似ているいま一つの人間すなわちこの両者に共通の「第三の人間」が、したがってこの第三者と両者との各々に相似た第四、第五の人間が、こうして無限に多くの第三者、「第三の人間」が存在しなければならなくなるから不都合だというにある。
(出隆・訳者注 アリストテレス『形而上学(上)』岩波文庫 三三六頁)

 第三の人間・媒介者は、
 論理学的には排中律(第三項排除規則)で排除される
 第三項(排中者)に該当する。

 ところで、自同律(A=A)から導出される自同者、
 および矛盾律(A≠非A)から導出される矛盾者は、
 存在者(〔L〕ens 主語・名詞)と存在(〔L〕esse 述語・動詞)を
 存在的(ontisch)-存在論的(ontologisch)と
 レベル的・文法学的に区別する
 ハイデガーの存在論的差異の物差しをあてるなら、

 自同者は存在的・主語的レベルでは自己、
 存在論的・述語(動詞)的レベルでは存在(有)、

 また、矛盾者は存在的・主語的レベルでは他者、
 存在論的・述語(動詞)的レベルでは非在(無・非者)ということができる。

 そこで「自同者-矛盾者」の対立は、
 倫理学的=主語的次元では「自-他」
 (「自己-他者」・「私-君」・「我-汝」)の
 二項対立(主語的二値論理・+と-)、
 また存在論的=述語的次元では「有-無」
 (「存在-非在」・「存在者-非在者」・
 「いる-いない」・「現前-不在」)の二項対立
 (述語的二値論理・1と0)として捉えられる。

 排中者は自同者でも矛盾者でもありえないものである。

 これはまず、存在論的=述語的次元では、
 存在者でも非在者でもありえない不可能者としての中間者となって現れる。
 これはちょうど「1と0」の間に純粋な「-(マイナス)」が浮き漂うような、
 単なる不在ではない負在者(純粋負号量の観念)と考えてよい。

 これは存在論的=述語的次元に、
 倫理的=主語的次元の「他者」の様相の影が入っていたようなものである。
 つまり「有-無」ではなくて「有-他-無」という状態が
 作られているのだとみてよい。
 この他者は主語的=存在的他者とはレベルの異なる存在論的他者である。

 レヴィナスなどが純粋存在の非人称的他者性を
 言い表す概念として提出しているイリヤ(〔仏〕il y a)はこれにあたる。
 しかしこれを非人称性という言い方は余り良くない。
 述語的にしか語り得ぬような次元に、
 本来主語についてしかそれを言い得ない
 人称的・非人称的という言い方を持ち込むことは
 問題を無意味に紛糾させてしまうだけだからである。

 それはむしろ「私」が「ある(存在する)」というのでも
 「ない(非在する)」というのでもない第三の動詞をもつのだ
 といった方が良いような状態である。

 「私」というのがおかしければ、主語はこの場合何でもよい。
 例えば、コップが「ある」のでも「ない」のでもない
 第三の状態に宙吊になるという状態を考えてみるとよい。

 これは一種の幽霊化であるといってよい。
 物は存在するか存在しないか、有るか無いか、
 現前するか不在するか、見えるか見えないかだけではなくて、
 化けて出る、妖怪変化する、妖しくなる、異妖化する、
 負の存在に変ずるという第三の場合がある。
 これは恐ろしい状態である。

 例えば、離人症
 (この病名も非人称化を意味していて余り良い病名とはいえない)などでは、
 事物が存在するのでも存在しないのでもない状態、
 有るとか無いとかいうのではなく
 「非ざる」(マイナス存在する、負在する)、
 「在る」がままに「居なくなる」
 「消えている」状態で実在するという状態が体験される。
 これは存在論的排中者の出現であると考えてよい。

 私はこれを「存在」でも「非在」でもない「負在」と呼び、
 通常の「非在」とは意味の違うものであることを
 はっきりさせておくことにしたい。

 私自身この存在の妖怪を見たことがあるのだが、
 この「負在」は「非在」と同じでは有り得ない。
 少なくとも
 「存在」の対立者としての「非在」、
 単なる「存在しない」、単なる「無い」とはそれは同じではない。

 逆に「負在」からみると、
 「存在」も「非在」もプラスの存在象限に置かれ、
 いわば「正在」の二様態になるのである。

 翻って「負在」にも負の「存在」のみならず、
 負の「非在」としか言い得ない様態がある。
 それはゼロというよりマイナスゼロであるようなもので、
 それは無というよりも破壊性である。
 これはレヴィナスがイリヤの恐怖を語るに際して
 しばしばその殺意・殺気として触れているものである。

 しかし、レヴィナスのそれについての考察は不十分で非常に曖昧に過ぎ、
 そのうわつらをなでているだけのもどかしいものである。
 私はむしろこれを自分で規定することにしたい。

 存在と非在は通常は1と0の量的な関係である。
 ところがそこに存在論的排中者が純粋負号の-となって滑り込んでくると、
 そこに却って+の存在という問題が提起されることになる。

 つまり〈+1・正存在〉〈+0・正非在〉〈-1・負存在〉〈-0・負非在〉という
 四つの存在様相の象限が分節化される。

 だが問題はこれに留まらない。
 更に、+と-が元々問題になっていなかった1と0の存在と非在は、
 共に零度の存在・零度の非在として捉え直されるのである。

 従って更になお〈零存在〉〈零非在〉が付け加わって、
 複雑な六つの事物の存在状態が識別されてくるのである。

 これはもはや二値論理では扱い切れない問題を提起している。
 つまり有るか無いかが問題になっているのではもはやないのである。

 これは可能性・不可能性・必然性・偶然性という
 通常は論理的な四つの様相概念の問題として
 考えられている次元に人を引き込む。
 つまり私が
 〈+1・正存在〉〈+0・正非在〉〈-1・負存在〉〈-0・負非在〉と呼んだものは、
 もちろん普通の意味でいうのではないが、
 それぞれほぼ
 〈必然存在〉〈可能存在〉〈偶然存在〉〈不可能存在〉と呼び得るものである。

(註1)アリストテレス『形而上学』九九〇b一七・一〇三九a三・一〇五九b八、
プラトン『パルメニデス』一三二A-一三三A、
『国家』 五九七C、『ティマイオス』三一A参照。