【1】〈虚無への還元〉は、本来的な背理法である矛盾律の本質をなす〈不可能性への還元〉(réduction à l'impossibilité)に代わるものである。正確に言えば、その後釜に座って背理法の業務を代行している。
 背理法は通常、〈不条理への還元〉(réduction à l'absurde)といわれる。それは言い換えれば、莫迦げたものへの還元ということである。
 不条理なもの(l'absurde)とは通常「莫迦げたもの」を意味する。一般にそれは不合理(非論理)と同じものと解されている。背理とは確かに不合理性を通常意味し、そして否定的で、また、蔑称的な響きをもつ言葉である。
 しかし、われわれは〈背理〉という極めてよく出来たこの和訳語の内に、より積極的に捉え返すべき閃きと響きを看取している。
 〈背理〉の背中は一体何に向けられているのか? そしてその響きは一体何に〈お入り〉と言っているのかを問うべきである。
 とはいえ、〈不条理への還元〉(réduction à l'absurde)の名でいわれる背理法については、むしろそれこそが〈莫迦げた還元〉(réduction absurde)であるというべきである。

【2】〈虚無への還元〉には二つの場合がある。
 それは無の壷の蓋が開いている場合とそれが閉められている場合とで意味がまるで違ってしまう。われわれが〈莫迦げた還元〉というのは後者の場合である。
 この場合は、われわれが蓋然的無と呼ぶ、大いにありそう(probable 或いはむしろ probubble)な無が働いているのに過ぎない。実際には〈虚無への還元〉はなされていないのであり、単にそれがなされているかのようにみせかけているだけなのである。
 しかし、前者の場合は違う。〈虚無への還元〉は、〈非在〉である不可能性自体を還元してその壷のなかに吸収することはできないが、それは〈不在〉を吸収して干上がらせることはできる。そして、まさにそれこそが〈虚無〉の本来的な機能なのである。
 ただし、〈虚無〉はこのようにして〈非在〉の影である〈不在〉を抹消することができるだけである。〈不在〉の本体として実在する〈非在〉を〈虚無〉は全く削除することができない。ただ、出来たと思いこむことができるだけである。